考えうるあらゆる物事、考えうるあらゆる要素、考えうるあらゆるすべてを貫く秩序・法則がある。
ミクロからマクロまですべてを貫く秩序・法則がある。
考えられないこと、知りえないこと、別の次元のこと、思うこともできないこと、それらのすべてを貫く秩序・法則がある。
と、推測される秩序・法則がある。と、推測される。
その秩序・法則は、考えることも知ることもできないはず。
何故なら、考えることも知ることもその秩序・法則に従っているから。
既に成立しているものが、その成立の根源をそれ自身によって対象化することは可能か?
閉塞状態
何故かは不明だが、私には私の世界(観)がある。
そして誰にも同じように世界(観)がある、と思う。
私の「世界」は誰にとっても「世界」でありうるか?
誰かの「世界」は私の「世界」と同一か?
「世界」って一体なんだろう?
それは、どこに?どのように成り立っているのか?
何故、世界(観)があることを疑問に思わないのだろう?
これらは、キチンと考えられなければならないコトである。
よくよく考えると、私は「私の世界の中に成立するモノゴト」に依存すること無しには何も考えることができない、ということが解る。
誰とでも共有できる「普遍的な事物」や「客観的な世界」も、各個人が各々の様式・性質・能力等に依ってそれを見出している、というような全く矛盾したモノである。
私が眼を閉じると私の(視覚)世界は消失する。
眼を開けた瞬間に視界は組み立てられる。
「世界」はあらかじめ有るのではない。
どのような「世界」も、私の認知に依存する。
私の認知の結果として「私の世界」は現れる。
「認知」以前に「世界」は成立していない!
「認知」によって「世界」を見出すのはのはヒトだけである。
、、、とも考えられている。
ヒト以外の生物、生物以外の存在には、、、世界は、、、?、、、?
(矛盾した疑問。「認知」に依らないモノには「世界」なんて無い!)
「ひとつの世界」って何だ?、、、何処にも無いのに、、、。
何故?そんなモノを有るはずのモノとして想定するのか?
何故かは解らないが私はソレラを根拠にせざるをえないのだ。
こんな「私の世界」ってなに???
これが世界なの?
こんなの世界ではない!
私は、私の認知は、私の世界は、完全に閉ざされている。
このように「私」と「認知」と「世界」が三位一体となりスベテを生成しているのだから、起点となるモノすらはっきりさせられない!
私が私の世界について私なりに考えると、こうならざるを得ない。
、、、という「考え」・「世界観」はダレのもの?
ホントウノセカイッテナニ???
そして誰にも同じように世界(観)がある、と思う。
私の「世界」は誰にとっても「世界」でありうるか?
誰かの「世界」は私の「世界」と同一か?
「世界」って一体なんだろう?
それは、どこに?どのように成り立っているのか?
何故、世界(観)があることを疑問に思わないのだろう?
これらは、キチンと考えられなければならないコトである。
よくよく考えると、私は「私の世界の中に成立するモノゴト」に依存すること無しには何も考えることができない、ということが解る。
誰とでも共有できる「普遍的な事物」や「客観的な世界」も、各個人が各々の様式・性質・能力等に依ってそれを見出している、というような全く矛盾したモノである。
私が眼を閉じると私の(視覚)世界は消失する。
眼を開けた瞬間に視界は組み立てられる。
「世界」はあらかじめ有るのではない。
どのような「世界」も、私の認知に依存する。
私の認知の結果として「私の世界」は現れる。
「認知」以前に「世界」は成立していない!
「認知」によって「世界」を見出すのはのはヒトだけである。
、、、とも考えられている。
ヒト以外の生物、生物以外の存在には、、、世界は、、、?、、、?
(矛盾した疑問。「認知」に依らないモノには「世界」なんて無い!)
「ひとつの世界」って何だ?、、、何処にも無いのに、、、。
何故?そんなモノを有るはずのモノとして想定するのか?
何故かは解らないが私はソレラを根拠にせざるをえないのだ。
こんな「私の世界」ってなに???
これが世界なの?
こんなの世界ではない!
私は、私の認知は、私の世界は、完全に閉ざされている。
このように「私」と「認知」と「世界」が三位一体となりスベテを生成しているのだから、起点となるモノすらはっきりさせられない!
私が私の世界について私なりに考えると、こうならざるを得ない。
、、、という「考え」・「世界観」はダレのもの?
ホントウノセカイッテナニ???
絶対不可避の「解釈」
この世界。私の世界。
私の五感や私の思いや考えによって作られている私の世界。
お馴染みの世界。あたりまえの世界。
私はこの世界の中で様々なものを見たり感じたりしている。私はこの世界の色々な物事について考えたりする。
まるで全てが私と無関係に存在しているかのように、、、
今私の目の前にある物はワタシがコノヨウナモノだとミルからこのようにある。 私が思い浮かべる物事も人物も何もかも全てが、ワタシがソウオモウからこそそのように思うことができるのだ。
(私やワタシという主体さえもこうしてツクラレテシマウ)
無自覚に認知するものや心に浮かぶものスベテを無条件にそのようなものとして自覚的に実際的なものとして扱っているだけ。
(何故かいつの間にかそのようなモノがソウシテイル)
だから、眼で見ているあらゆるモノも思い浮かべるどんなモノもスベテが不安定で不完全である。
たとえばナニカを「これ」として見れば「これ」だと思えるし、「コレ」だと思えば「コレ」のように見えてしまう。見方・捉え方・感じ方・考え方で全く違うものをみいだしている。
それは認知する主体が不安定で不完全だからだろう。
不安定だから時によって違って見えるし、不完全だからそのようなものをみいだしてしまうのだ。
私が認知する全ては私の解釈(絶対に意識できない独自の形成作用)に依存せざるをえない。 そして当然この〈解釈の結果現れるもの〉は私だけのものである。
(私のスベテはソレラで作られている!)
そうではないモノが有るとしても、私はソレを知りえない!
私にとってはそのようなモノ(が存在するということ)は存在しないことと同じである。
私の世界にあるもの、認知されるあらゆる全ては〈解釈〉というその一瞬の〈結果〉である。
どんなにリアリティーがあるものでも、全ては別の場面・状況あるいは別の意識状態では別の解釈が可能なモノである。
全ては(その瞬間の)解釈の結果であり、実際にはどのようなモノも(解釈無しには)存在しない。
全ては架空のものであり、そう思う瞬間に実在すると思えるだけ。
全ては常ならざるものであり、永遠に変わらぬものなど無い。
そのようなものが有ると思うのはただそのような思いにすぎない。
(不変のものも無常のものもナニも無い。ただコトバがあるだけ)
、、、と考える私自体が無常のモノである。、、、という考え自体が一瞬のものである。
考えは考えにすぎない!思いは思いにすぎない!
(ソレラは次に現れる考え・思いにより忘れられ消え去る)
このことをハッキリ自覚しなければナニも始まらない!
自分の瞬間的な認知や解釈に囚われている結果こうなっている。
(自分自体のことをわからぬまま)
自分の直感を無闇に信じてはならない。
自分の直観をただ信じ込んではいけない。
何故なら、直感も直観も全てが無意識に行われる解釈(無自覚な決め付け)の結果だから。 それらは実際には独自な感覚や観察にすぎない。ただ単に(私にとって)スンナリと馴染むだけ。
私の(混沌とした)内部でつくられていることに気付かないだけ。
純粋な直感というものは無いし、無垢な直観というものも無い。
自分を信じるということは自分を疑わないということであり、無自覚(本質的に独善的かつ利己的)であり続けようとすることである。
しかし、日常では自分の全てをただ信じている。言い換えると日常的に自分の直感・直観・自覚・認知などに囚われているということ。 つまり〈自分・私〉が無意識に生み出す(固定観念とでも言うべき)ものに自らを(つまり全てを)閉じ込めているということ。
(自分の認知や理性が不安定でも不完全でもないと思うなら、早急に全てを疑う必要が有る)
囚われている(=ただ信じている)ことに気付いていないからこそ、それら(キャッカンセイの無い私的なもの)を根拠に平然と(非)理性的に考えることができる。
この世界は私だけの世界。
私が根拠とするスベテはこの私の世界の中にしか無い。
(完全な自家中毒である。私は私の生み出す毒によって作られる)
私は自らの直感や直観(独自な条件反射の結果生成されるもの)を考えの素材・根拠にせざるをえない。(私にとっての)現実とか客観的な事実とかありのままに認知されるものというものも、実際にはこうした意識できない解釈(根拠の無い形成作用)の結果だけが基礎になっている。
全ては私の意識の一部・全体の一部・〈私〉の迷妄、思い上がり、暴走の結果である。
何故、どう考えてもただの(反射的な)解釈にすぎないものが全ての根拠や前提になるのだろう?
信じるべきモノなど(私の世界以外には)ドコにも無いのに!
自らの成り立ちを顧みないことが、自らを矮小な存在にしている。
(もともとどんな自分も、、、スベテが架空のモノなのだが、、、)
私の五感や私の思いや考えによって作られている私の世界。
お馴染みの世界。あたりまえの世界。
私はこの世界の中で様々なものを見たり感じたりしている。私はこの世界の色々な物事について考えたりする。
まるで全てが私と無関係に存在しているかのように、、、
今私の目の前にある物はワタシがコノヨウナモノだとミルからこのようにある。 私が思い浮かべる物事も人物も何もかも全てが、ワタシがソウオモウからこそそのように思うことができるのだ。
(私やワタシという主体さえもこうしてツクラレテシマウ)
無自覚に認知するものや心に浮かぶものスベテを無条件にそのようなものとして自覚的に実際的なものとして扱っているだけ。
(何故かいつの間にかそのようなモノがソウシテイル)
だから、眼で見ているあらゆるモノも思い浮かべるどんなモノもスベテが不安定で不完全である。
たとえばナニカを「これ」として見れば「これ」だと思えるし、「コレ」だと思えば「コレ」のように見えてしまう。見方・捉え方・感じ方・考え方で全く違うものをみいだしている。
それは認知する主体が不安定で不完全だからだろう。
不安定だから時によって違って見えるし、不完全だからそのようなものをみいだしてしまうのだ。
私が認知する全ては私の解釈(絶対に意識できない独自の形成作用)に依存せざるをえない。 そして当然この〈解釈の結果現れるもの〉は私だけのものである。
(私のスベテはソレラで作られている!)
そうではないモノが有るとしても、私はソレを知りえない!
私にとってはそのようなモノ(が存在するということ)は存在しないことと同じである。
私の世界にあるもの、認知されるあらゆる全ては〈解釈〉というその一瞬の〈結果〉である。
どんなにリアリティーがあるものでも、全ては別の場面・状況あるいは別の意識状態では別の解釈が可能なモノである。
全ては(その瞬間の)解釈の結果であり、実際にはどのようなモノも(解釈無しには)存在しない。
全ては架空のものであり、そう思う瞬間に実在すると思えるだけ。
全ては常ならざるものであり、永遠に変わらぬものなど無い。
そのようなものが有ると思うのはただそのような思いにすぎない。
(不変のものも無常のものもナニも無い。ただコトバがあるだけ)
、、、と考える私自体が無常のモノである。、、、という考え自体が一瞬のものである。
考えは考えにすぎない!思いは思いにすぎない!
(ソレラは次に現れる考え・思いにより忘れられ消え去る)
このことをハッキリ自覚しなければナニも始まらない!
自分の瞬間的な認知や解釈に囚われている結果こうなっている。
(自分自体のことをわからぬまま)
自分の直感を無闇に信じてはならない。
自分の直観をただ信じ込んではいけない。
何故なら、直感も直観も全てが無意識に行われる解釈(無自覚な決め付け)の結果だから。 それらは実際には独自な感覚や観察にすぎない。ただ単に(私にとって)スンナリと馴染むだけ。
私の(混沌とした)内部でつくられていることに気付かないだけ。
純粋な直感というものは無いし、無垢な直観というものも無い。
自分を信じるということは自分を疑わないということであり、無自覚(本質的に独善的かつ利己的)であり続けようとすることである。
しかし、日常では自分の全てをただ信じている。言い換えると日常的に自分の直感・直観・自覚・認知などに囚われているということ。 つまり〈自分・私〉が無意識に生み出す(固定観念とでも言うべき)ものに自らを(つまり全てを)閉じ込めているということ。
(自分の認知や理性が不安定でも不完全でもないと思うなら、早急に全てを疑う必要が有る)
囚われている(=ただ信じている)ことに気付いていないからこそ、それら(キャッカンセイの無い私的なもの)を根拠に平然と(非)理性的に考えることができる。
この世界は私だけの世界。
私が根拠とするスベテはこの私の世界の中にしか無い。
(完全な自家中毒である。私は私の生み出す毒によって作られる)
私は自らの直感や直観(独自な条件反射の結果生成されるもの)を考えの素材・根拠にせざるをえない。(私にとっての)現実とか客観的な事実とかありのままに認知されるものというものも、実際にはこうした意識できない解釈(根拠の無い形成作用)の結果だけが基礎になっている。
全ては私の意識の一部・全体の一部・〈私〉の迷妄、思い上がり、暴走の結果である。
何故、どう考えてもただの(反射的な)解釈にすぎないものが全ての根拠や前提になるのだろう?
信じるべきモノなど(私の世界以外には)ドコにも無いのに!
自らの成り立ちを顧みないことが、自らを矮小な存在にしている。
(もともとどんな自分も、、、スベテが架空のモノなのだが、、、)
わたし
わたしは、いま、ここに、こうして存在している。
わたしはそのように感じ、そう思っている。
そのようにわたしは考えている。
世界も、わたし自身も、わたしが考える様に存在している。
わたしはそう思い、そう信じている。
わたしはそう感じ、そう思い、そう考え、それを疑わずに信じている。
では、 その考えや信念は、いったい何によってもたらされるのか?
その根拠は何か絶対的なものなのか?
そのアイディアを支えているのは、一体なんなのか?
わたし自身も
わたしの世界も
わたしが感じる全てのモノも
わたしが考える全てのモノも
わたしが信じる全てのモノも
わたしが知りうる全てのモノも
あらゆる全てのモノは
わたしによって感じられるのであり
わたしによって考えられるのであり
わたしによって信じられるのであり
わたしによって知られるのである
わたしは、見る。
わたしは、眼で見る。
わたしは、眼を使って、見ている。
わたしは、世界を、見る。
わたしが、世界を、見ている。
わたしが、世界を、見いだしている。
わたしの見る世界は、わたしが見る様に存在している。
何故なら、わたしが、世界を、そう見ているから。
わたしの考える世界は、わたしが考える様に存在している。
何故なら、わたしが、世界を、そう考えているから。
わたしの考える物事は、わたしが考える様に存在している。
何故なら、わたしが、物事を、そう見ているから。
わたしが思い描く世界は、わたしが思い描くことによって成り立つ。
わたしが信じる様に、全ては存在している。
わたしの世界をみいだすモノは、わたし以外に、無い。
わたしが考える以前には、考えられるようなモノは、ナニも存在しえない。
わたしが考える全ては、わたしの考えに依存している。
わたしがその存在を認めるから、それは存在することになる。
わたしが、全てを、存在させている。
わたしが、全てを、作りだし、生み出している。
わたしが、わたしの、内も、外も、つくり 、
わたしが、常に、維持し続けている。
そうして、わたしの世界を、つくりあげ
わたし自身をも、つくりあげているという
ワタシ、というのは、、、
ナニ??????
わからない
誰にも、ナニにも、知ることはできないだろう
ソレは知りえないモノ、純粋な謎、
予め無いモノ、あるはずの(無い)モノ、、、、。
わたしはそのように感じ、そう思っている。
そのようにわたしは考えている。
世界も、わたし自身も、わたしが考える様に存在している。
わたしはそう思い、そう信じている。
わたしはそう感じ、そう思い、そう考え、それを疑わずに信じている。
では、 その考えや信念は、いったい何によってもたらされるのか?
その根拠は何か絶対的なものなのか?
そのアイディアを支えているのは、一体なんなのか?
わたし自身も
わたしの世界も
わたしが感じる全てのモノも
わたしが考える全てのモノも
わたしが信じる全てのモノも
わたしが知りうる全てのモノも
あらゆる全てのモノは
わたしによって感じられるのであり
わたしによって考えられるのであり
わたしによって信じられるのであり
わたしによって知られるのである
わたしは、見る。
わたしは、眼で見る。
わたしは、眼を使って、見ている。
わたしは、世界を、見る。
わたしが、世界を、見ている。
わたしが、世界を、見いだしている。
わたしの見る世界は、わたしが見る様に存在している。
何故なら、わたしが、世界を、そう見ているから。
わたしの考える世界は、わたしが考える様に存在している。
何故なら、わたしが、世界を、そう考えているから。
わたしの考える物事は、わたしが考える様に存在している。
何故なら、わたしが、物事を、そう見ているから。
わたしが思い描く世界は、わたしが思い描くことによって成り立つ。
わたしが信じる様に、全ては存在している。
わたしの世界をみいだすモノは、わたし以外に、無い。
わたしが考える以前には、考えられるようなモノは、ナニも存在しえない。
わたしが考える全ては、わたしの考えに依存している。
わたしがその存在を認めるから、それは存在することになる。
わたしが、全てを、存在させている。
わたしが、全てを、作りだし、生み出している。
わたしが、わたしの、内も、外も、つくり 、
わたしが、常に、維持し続けている。
そうして、わたしの世界を、つくりあげ
わたし自身をも、つくりあげているという
ワタシ、というのは、、、
ナニ??????
わからない
誰にも、ナニにも、知ることはできないだろう
ソレは知りえないモノ、純粋な謎、
予め無いモノ、あるはずの(無い)モノ、、、、。
脳科学
すべては脳に依存する。脳に依存しないモノはない。
という考えは当然、脳に依存する。
という考えも脳に依存する。と、考えられる。
やはり全ては脳に依存する。としか考えられない。
(すべてを脳の働きに還元できるのか?脳は何かに依存していないのか?)
脳のことを気にするのはナニ?それはやっぱり脳なの?
大脳?新皮質?新新皮質?前頭葉?、、?、、ネットワーク?、、何?、、、?
それは、わからない。と、脳は(?)考える。
なにせ、一千億もの細胞から成る脳の振る舞い(のある一瞬)を、その脳自体が(どうやっているか見当もつかないが)幾つかの言葉に置き換えるなんて、無理なんだ。
結局は何も解明されない。解明されるはずがない。
と、脳が(?)考える。
考える上では、脳というものも、他のあらゆる言葉にされうる概念・観念・事物と同様のものである。
ただ「脳」が特殊なのは、(私の)考えの中ではあらゆるものが脳の働きに依存しているかのように考えられてしまう、ということなのだ。
(この考えに捕らわれてはならない)
私のすべてが脳に依存することは間違いない。脳がなければ私のすべてが成り立たない。
脳が全てだ、と証明するのが脳って、、アハハハハ、、、、
脳科学とかいっても全ては推測、もっともらしい単なる考え。
という考えは、やはり脳に依存する。と、考えられる。
もっともらしい単なる考え。
それを根拠にしている。アハハハハ、、、、、
と、笑っていてもしょうがない。
という考えは当然、脳に依存する。
という考えも脳に依存する。と、考えられる。
やはり全ては脳に依存する。としか考えられない。
(すべてを脳の働きに還元できるのか?脳は何かに依存していないのか?)
脳のことを気にするのはナニ?それはやっぱり脳なの?
大脳?新皮質?新新皮質?前頭葉?、、?、、ネットワーク?、、何?、、、?
それは、わからない。と、脳は(?)考える。
なにせ、一千億もの細胞から成る脳の振る舞い(のある一瞬)を、その脳自体が(どうやっているか見当もつかないが)幾つかの言葉に置き換えるなんて、無理なんだ。
結局は何も解明されない。解明されるはずがない。
と、脳が(?)考える。
考える上では、脳というものも、他のあらゆる言葉にされうる概念・観念・事物と同様のものである。
ただ「脳」が特殊なのは、(私の)考えの中ではあらゆるものが脳の働きに依存しているかのように考えられてしまう、ということなのだ。
(この考えに捕らわれてはならない)
私のすべてが脳に依存することは間違いない。脳がなければ私のすべてが成り立たない。
脳が全てだ、と証明するのが脳って、、アハハハハ、、、、
脳科学とかいっても全ては推測、もっともらしい単なる考え。
という考えは、やはり脳に依存する。と、考えられる。
もっともらしい単なる考え。
それを根拠にしている。アハハハハ、、、、、
と、笑っていてもしょうがない。
主観でないもの
「主観でないもの」とはなにか?
目の前にあるもの、客観的事実、科学・法則・原理・因果律‥‥。
それがいかに主観ではないのかを証明せよ。
不可能である。
証明するためには主観が必要になる。
なにかが主観ではないことをを証明しようとする試みは、それが主観的なものであることを証明することになる。
「主観でないものはなにか?」
主観が働き出した時点で、全ては主観になる。
知ろうとするものは、全ては主観になる。
考えているかぎり、全ては主観になる。
主観でない「もの」は存在しない。
「もの」として捉える物事は全て、そのように捉える以前に主観が生み出しているので「主観でないものはなにか?」という疑問は初めから矛盾している。
この疑問は、曖昧であやふやな理性が、ふとした思い付きで生み出したものである。何かを期待して。
目の前にあるもの、客観的事実、科学・法則・原理・因果律‥‥。
それがいかに主観ではないのかを証明せよ。
不可能である。
証明するためには主観が必要になる。
なにかが主観ではないことをを証明しようとする試みは、それが主観的なものであることを証明することになる。
「主観でないものはなにか?」
主観が働き出した時点で、全ては主観になる。
知ろうとするものは、全ては主観になる。
考えているかぎり、全ては主観になる。
主観でない「もの」は存在しない。
「もの」として捉える物事は全て、そのように捉える以前に主観が生み出しているので「主観でないものはなにか?」という疑問は初めから矛盾している。
この疑問は、曖昧であやふやな理性が、ふとした思い付きで生み出したものである。何かを期待して。
言葉の可能性
当然だが「言葉」に固有の意味は無い。そして「言葉」の使い方は自由であり、どのような「言葉の組み合わせ」も可能である。
気が付くと、私は、何故かは解らないが、アレコレと考えている。
心に浮かぶ様々な物事について、私の認知する「世界」のあらゆるモノゴトについて、いつとはなしに言葉で考えている。
考えることで「世界」を無意識に補完・維持している。
知覚・解釈・実感・認識・記憶・理解・固定観念・既成概念・客観的普遍的事物・常識などの言葉にされ(う)るものの意味・内容が「私の世界」を構築する。 つまり「世界」とは「言葉」で描写・記述され(う)るもののことである。言葉で考えられるモノが私の世界の全てである。
それにしても、何故、私は、いつも、 言葉で、考えるている、のだろうか?
これが解れば全ての謎があっさりと解けるはずなのだが、、、
(言葉で考えても絶対に無理だということだけは解る)
「言葉」そのものは空虚な器であり、何かを仮に把握する為の抽象・記号にすぎない。
そうした性質の「言葉」によって「生成されるイメージ」は、言葉が示そうとする「何かそのもの」とは全く異質のものである。
私には「言葉」によって私の内部にイメージされる架空の「事物・現実」を扱うことしかできない。
「言葉が示そうとするもの」は「言葉が描写する世界」の中には有る。しかし言葉の可能性を超えたジッサイノセカイには言葉も・考えも・思いも・感覚も・なんにも及ばない。
ソレは私には微塵も知ることのできないセカイ。
対象化できないセカイ。ソコには私すら無い。
ソレについて、私には、何も、言うことが、できない。
ところが私には何故かそのような自覚は無いし、このことは決して顧みられることがない。
なので平気で「私はあらゆる物事について考えることができる」とか
「私が考えることができる物事が実質的に(私の)世界を構成している」などと思っている。
ひとつひとつの「言葉」は既成のものである。辞書を引いたりして調べれば意味や使い方は解る。 しかしそうして解るのはその言葉の「一般的な意味や用法」であって、肝心の「実際に使われている言葉の意味・意図・文脈」は決して解らない。
全ての言葉(が示すもの)は「私が推測するしかないもの」である。
私は言葉の定義というものを怪しく思う。
何故?何の為に?辞書の類いが(いくつも)有るのだろう?
言葉の意味や用法を調べてどうするのか?
結局は推測の手掛りにしかならないし、そこには知らぬ間に「言葉」に囚われてしまう危険性がある!
つまり言葉を、言葉にされ(う)るモノを、言葉の意味や意図を、無闇に信じ込んで「私の世界」の基盤・要素・前提にしてしまうという成り行きを自らが無自覚に促進・強化してしまうということ。
この、言葉で描写され(う)る理性的現実的(とみなされる架空の)世界をジッサイノセカイと取り違えてしまうようになってしまうということ。
これは「とても危険である」と自覚しなければならない。
「世界」というのは「私の世界」であり「私だけの世界」にすぎない。
私には言葉という器の中身である意味・意図・文脈つまり言葉の働きだけがモンダイであり、ナニカを言葉とはベツノモノでヒョウゲンできるなら言葉はあまり必要ではない。
(言葉は効率的でないうえ極めて扱いの難しい媒体だと思う)
私は自分の言葉を辞書にあるような意味と矛盾しないように使っているのだが出来上がった文章は「意味がつかみにくい、なんだか解らないもの」になっているようなのだ。
これではダメだと思う。だけど仕方がないし構わないと思う。
「言葉」はこのような使われ方には耐えられないのだ。
私は言葉の可能性を試しているのかもしれない。
こうやって言葉で(私なりの)実験をしているのだと思う。
何か(言葉とは別の次元のモノ)を「言葉にできる」と思うこと自体が勘違いだし、何かを「言葉で表現できた」と考えることも単なる錯誤にすぎないのだけど、、、
いつまでもどこまでもこんな「言葉」に頼っていていいのだろうか?
言葉と意味とを一旦切り離す必要があるのかもしれない。
「言葉によらない理解」について追求するべきかもしれない。
それともアタラシイコトバが必要なのだろうか?
あるいは認知の様式の変化?理性の進化?
(でもそれだけでハッキリトワカルヨウニナルのだろうか? )
はたして、言葉の可能性とは、、、?
気が付くと、私は、何故かは解らないが、アレコレと考えている。
心に浮かぶ様々な物事について、私の認知する「世界」のあらゆるモノゴトについて、いつとはなしに言葉で考えている。
考えることで「世界」を無意識に補完・維持している。
知覚・解釈・実感・認識・記憶・理解・固定観念・既成概念・客観的普遍的事物・常識などの言葉にされ(う)るものの意味・内容が「私の世界」を構築する。 つまり「世界」とは「言葉」で描写・記述され(う)るもののことである。言葉で考えられるモノが私の世界の全てである。
それにしても、何故、私は、いつも、 言葉で、考えるている、のだろうか?
これが解れば全ての謎があっさりと解けるはずなのだが、、、
(言葉で考えても絶対に無理だということだけは解る)
「言葉」そのものは空虚な器であり、何かを仮に把握する為の抽象・記号にすぎない。
そうした性質の「言葉」によって「生成されるイメージ」は、言葉が示そうとする「何かそのもの」とは全く異質のものである。
私には「言葉」によって私の内部にイメージされる架空の「事物・現実」を扱うことしかできない。
「言葉が示そうとするもの」は「言葉が描写する世界」の中には有る。しかし言葉の可能性を超えたジッサイノセカイには言葉も・考えも・思いも・感覚も・なんにも及ばない。
ソレは私には微塵も知ることのできないセカイ。
対象化できないセカイ。ソコには私すら無い。
ソレについて、私には、何も、言うことが、できない。
ところが私には何故かそのような自覚は無いし、このことは決して顧みられることがない。
なので平気で「私はあらゆる物事について考えることができる」とか
「私が考えることができる物事が実質的に(私の)世界を構成している」などと思っている。
ひとつひとつの「言葉」は既成のものである。辞書を引いたりして調べれば意味や使い方は解る。 しかしそうして解るのはその言葉の「一般的な意味や用法」であって、肝心の「実際に使われている言葉の意味・意図・文脈」は決して解らない。
全ての言葉(が示すもの)は「私が推測するしかないもの」である。
私は言葉の定義というものを怪しく思う。
何故?何の為に?辞書の類いが(いくつも)有るのだろう?
言葉の意味や用法を調べてどうするのか?
結局は推測の手掛りにしかならないし、そこには知らぬ間に「言葉」に囚われてしまう危険性がある!
つまり言葉を、言葉にされ(う)るモノを、言葉の意味や意図を、無闇に信じ込んで「私の世界」の基盤・要素・前提にしてしまうという成り行きを自らが無自覚に促進・強化してしまうということ。
この、言葉で描写され(う)る理性的現実的(とみなされる架空の)世界をジッサイノセカイと取り違えてしまうようになってしまうということ。
これは「とても危険である」と自覚しなければならない。
「世界」というのは「私の世界」であり「私だけの世界」にすぎない。
私には言葉という器の中身である意味・意図・文脈つまり言葉の働きだけがモンダイであり、ナニカを言葉とはベツノモノでヒョウゲンできるなら言葉はあまり必要ではない。
(言葉は効率的でないうえ極めて扱いの難しい媒体だと思う)
私は自分の言葉を辞書にあるような意味と矛盾しないように使っているのだが出来上がった文章は「意味がつかみにくい、なんだか解らないもの」になっているようなのだ。
これではダメだと思う。だけど仕方がないし構わないと思う。
「言葉」はこのような使われ方には耐えられないのだ。
私は言葉の可能性を試しているのかもしれない。
こうやって言葉で(私なりの)実験をしているのだと思う。
何か(言葉とは別の次元のモノ)を「言葉にできる」と思うこと自体が勘違いだし、何かを「言葉で表現できた」と考えることも単なる錯誤にすぎないのだけど、、、
いつまでもどこまでもこんな「言葉」に頼っていていいのだろうか?
言葉と意味とを一旦切り離す必要があるのかもしれない。
「言葉によらない理解」について追求するべきかもしれない。
それともアタラシイコトバが必要なのだろうか?
あるいは認知の様式の変化?理性の進化?
(でもそれだけでハッキリトワカルヨウニナルのだろうか? )
はたして、言葉の可能性とは、、、?
幻
何かを見たり、聞いたり、何かについて考えたり、思い浮かべたりすると、〈そのようなもの〉が「実際に有る」と思うようになってしまう。
それが実在することが前提になってしまう。
あらかじめ存在するものなど無い。
あらかじめ存在しないものは、知りえない。
知っているもの、知りうるものは、そのように想定されるものである。
そのように具現化されたものである。
もともとはそんなものはなにもない。
それが実在することが前提になってしまう。
あらかじめ存在するものなど無い。
あらかじめ存在しないものは、知りえない。
知っているもの、知りうるものは、そのように想定されるものである。
そのように具現化されたものである。
もともとはそんなものはなにもない。
主体の謎 謎の主体
私はいつも何かを考えたり何かをしている。 これらは常に意識的であり主体的であり能動的である。
と、考えがちだが、よくよく観察するとそれらの思惟・行為は、厳密には反射的かつ連鎖的であり、むしろ無意識的であるように思える。
「私は考えている」とは言えるが、考えているのは私なのだろうか?
私というものが無くても考えているのではないか?
「私が何かしている」と理性的には思えるのだが、それをしているのは私なのだろうか?
私というものが無くても、いつも何かをしているのではないか?
私が「私」について考える、というときの「私」というのは、私が考える「私」であって、それは「考えられた私」なのだが、それがこの私なのだろうか?
と考えるこの私自体もつまりは〈考えによって作られているモノ〉なのだろうか?
そもそも私にはひとつの定まった形というものが無いようだ。
私は常に揺れ動いて変化している。
私は決して〈恒常不変の一個の安定したモノ〉ではないと思う。
そのような捉えようの無い私を捉えようとする私を対象とする私が考えようとしている私、、、、、、
私にとって、私が認知する全ての事物は(そうは考えにくいのだが)当然私(の認知・考え)に依存する。 そして〈私自身〉も(そうは思えないのだが)私の〈考え〉に依存しているようだ。
とはいえこの私にとって私はいつでもどこまでも私である。
しかし、私がなんなのかは、私には全く不明である。
私が私を客観的なものとして、あるいは主観的なものとしても捉えきることは不可能だ。
やはり実際には[私]というモノは無いと思う。
考えるときにあるもの、言葉にされたときだけあるもののようだ。
それでも私とは一体なにか?と考える私がいる。
コレはどういうことなのか???完全に矛盾している!!!
全く辻褄が合わない。実に混沌としている、、、はずなのだが、こうして平然と考えている。どうしてこんなことが可能なのか?
何かがおかしい!、、、のだが、、、私には何がどうおかしいのかマッタク解らない。
しかし何故か、こんな成り立ちがわからない(実は無いはずの)私が見る世界は安定しているようだ。そして私自身も安定しているように私には思える。 (のでますます解らない!)
これらの文章を作っているのは私。ひとつひとつの言葉をつなぎ合わせているのは私。作った文章を見つつ、いろいろと考えつつ作文しているのはこの私。
その時々に、すべてを統括する私があるようだ。
という時の、その私とは一体なにか?
そして、その私の見る世界とは一体なにか?
、、、と考える私とはなにか?
私とは、何かを見たり聞いたり感じたり考えたり行為したりするものである。そして、それらを可能にする機能を有する肉体に依存するモノである、 と考えられる。
私とは、常に肉体や意識の状態やその環境に依存するモノである。だから恒常不変の私というものが無いのは当然のことで、アレコレと悩む必要は無い。 とも考えられる。
何故私という主体は揺れ動いていながら、常に私でいられるのか?
私という同じ言葉が何度も使われているが、その指し示すモノは同じではない。
私が何も考えなければ、何も現れない。
何処にも何も無いはずなのに、、、 考えてしまう、、、、、、
しかし、スベテヲシルモノがアル。
ソレは私には決して知りえないモノ。
誰にもナニにも、名付けようの無いもの、、、ボンヤリしているのでよく見ようと思った瞬間に消え失せるモノ、、、考えに依存する〈私〉には決して考えることができないモノ。
常に〈私〉によって隠されるモノ。 〈私〉と同時にはありえないモノ。
ソレがアル時、〈私〉はナイ。
ソレは知りえない。知ろうとしてはいけない。
考えも思いも及ばないのだから。
けれど、ソレがアルからスベテがアルのだろう。
と、考えがちだが、よくよく観察するとそれらの思惟・行為は、厳密には反射的かつ連鎖的であり、むしろ無意識的であるように思える。
「私は考えている」とは言えるが、考えているのは私なのだろうか?
私というものが無くても考えているのではないか?
「私が何かしている」と理性的には思えるのだが、それをしているのは私なのだろうか?
私というものが無くても、いつも何かをしているのではないか?
私が「私」について考える、というときの「私」というのは、私が考える「私」であって、それは「考えられた私」なのだが、それがこの私なのだろうか?
と考えるこの私自体もつまりは〈考えによって作られているモノ〉なのだろうか?
そもそも私にはひとつの定まった形というものが無いようだ。
私は常に揺れ動いて変化している。
私は決して〈恒常不変の一個の安定したモノ〉ではないと思う。
そのような捉えようの無い私を捉えようとする私を対象とする私が考えようとしている私、、、、、、
私にとって、私が認知する全ての事物は(そうは考えにくいのだが)当然私(の認知・考え)に依存する。 そして〈私自身〉も(そうは思えないのだが)私の〈考え〉に依存しているようだ。
とはいえこの私にとって私はいつでもどこまでも私である。
しかし、私がなんなのかは、私には全く不明である。
私が私を客観的なものとして、あるいは主観的なものとしても捉えきることは不可能だ。
やはり実際には[私]というモノは無いと思う。
考えるときにあるもの、言葉にされたときだけあるもののようだ。
それでも私とは一体なにか?と考える私がいる。
コレはどういうことなのか???完全に矛盾している!!!
全く辻褄が合わない。実に混沌としている、、、はずなのだが、こうして平然と考えている。どうしてこんなことが可能なのか?
何かがおかしい!、、、のだが、、、私には何がどうおかしいのかマッタク解らない。
しかし何故か、こんな成り立ちがわからない(実は無いはずの)私が見る世界は安定しているようだ。そして私自身も安定しているように私には思える。 (のでますます解らない!)
これらの文章を作っているのは私。ひとつひとつの言葉をつなぎ合わせているのは私。作った文章を見つつ、いろいろと考えつつ作文しているのはこの私。
その時々に、すべてを統括する私があるようだ。
という時の、その私とは一体なにか?
そして、その私の見る世界とは一体なにか?
、、、と考える私とはなにか?
私とは、何かを見たり聞いたり感じたり考えたり行為したりするものである。そして、それらを可能にする機能を有する肉体に依存するモノである、 と考えられる。
私とは、常に肉体や意識の状態やその環境に依存するモノである。だから恒常不変の私というものが無いのは当然のことで、アレコレと悩む必要は無い。 とも考えられる。
何故私という主体は揺れ動いていながら、常に私でいられるのか?
私という同じ言葉が何度も使われているが、その指し示すモノは同じではない。
私が何も考えなければ、何も現れない。
何処にも何も無いはずなのに、、、 考えてしまう、、、、、、
しかし、スベテヲシルモノがアル。
ソレは私には決して知りえないモノ。
誰にもナニにも、名付けようの無いもの、、、ボンヤリしているのでよく見ようと思った瞬間に消え失せるモノ、、、考えに依存する〈私〉には決して考えることができないモノ。
常に〈私〉によって隠されるモノ。 〈私〉と同時にはありえないモノ。
ソレがアル時、〈私〉はナイ。
ソレは知りえない。知ろうとしてはいけない。
考えも思いも及ばないのだから。
けれど、ソレがアルからスベテがアルのだろう。
いくつもの見方、ひとつの選択、偏ったまとまり
主体とはなにか?
どのような事象をどのように扱うかによって、それにふさわしい自分の様態=主体が形成されている。対象や環境を識別し、それに対応する為に主体は形成されている。
要するに主体とは、その瞬間にとらわれている対象や環境に対して作られるもの、といったところか。
いや、違う。全く逆だ。
「対象や環境」はあらかじめそのようにあるわけではない。
主体の状態・あり方によって、それにふさわしい対象や環境が現れる。つまり、主体が対象や環境をみいだしているのだ。
いや、これも違う。
「主体だけがある」ということも「対象や環境=客体だけがある」ということも実際には成り立たない。
主体の成立はその客体の成立が前提であり、「対象や環境=客体」の存在はそうみなす主体の存在が前提になる。主体と客体は相互に依存しあうことで、はじめて成り立つ。
(そしてソレラを成立させ維持するハタラキが無ければならない)
「主体」とは何かを見る者であり、見るべき何かが無ければ成立しないものである。
そして「客体」というものも、何者かがソレをそのようにみなすことが無ければ成立しないものである。
(主体も客体も、〈私〉がナニカを示すために使う言葉なのだが、、、)
世界観を投影する主体(=何かを見る者)が「対象や環境」(=世界)を生成し維持している。
また同時に何か(ソレやコレやアレ)を、「そうみなす考えや意図とは無関係に、あらかじめ存在するもの」として認知している主体がある。 この認知の内容が「世界」である。
つまり、能動的に世界を見出す主体と、客観的世界を受動的に認知する主体とがあるということ。
だけどこれでは、何が初めかわからない。ふたつの見方=主体が同時に成立していることになる。つまり、ふたつ(あるいはそれ以上)の見方=主体が同時に成立可能であると考えるのが合理的だ。
合理的であるはずなのだが、何故だか私には理解しがたい。
複数の主体が同時に(ひとつの中に)成立している!?
それが私なのか?
だとしても、私が見ているものが何なのか、私にはわからない。
(実はスベテはゴウリテキでないナニカによってデキテイル)
すべては「考え」「考え方」である。ただそう考えられるというだけ。
私がこれらの文章を作ったのは間違いないのだが、、、これは、私が、考えたもの、なのか?
残念ながら、いずれにせよ私は私の考えに惑わされてしまうのだ。
私は考えることに戸惑いを抱き続けざるをえない。
私が何も考えなければ、何も現れない。
何処にも何も無いはずなのに、、、 考えてしまう、、、、、、
こうして、考える私が考える、、、
(アワレナリ)
私がアル限り、すべては考えに閉じ込められる!
どのような事象をどのように扱うかによって、それにふさわしい自分の様態=主体が形成されている。対象や環境を識別し、それに対応する為に主体は形成されている。
要するに主体とは、その瞬間にとらわれている対象や環境に対して作られるもの、といったところか。
いや、違う。全く逆だ。
「対象や環境」はあらかじめそのようにあるわけではない。
主体の状態・あり方によって、それにふさわしい対象や環境が現れる。つまり、主体が対象や環境をみいだしているのだ。
いや、これも違う。
「主体だけがある」ということも「対象や環境=客体だけがある」ということも実際には成り立たない。
主体の成立はその客体の成立が前提であり、「対象や環境=客体」の存在はそうみなす主体の存在が前提になる。主体と客体は相互に依存しあうことで、はじめて成り立つ。
(そしてソレラを成立させ維持するハタラキが無ければならない)
「主体」とは何かを見る者であり、見るべき何かが無ければ成立しないものである。
そして「客体」というものも、何者かがソレをそのようにみなすことが無ければ成立しないものである。
(主体も客体も、〈私〉がナニカを示すために使う言葉なのだが、、、)
世界観を投影する主体(=何かを見る者)が「対象や環境」(=世界)を生成し維持している。
また同時に何か(ソレやコレやアレ)を、「そうみなす考えや意図とは無関係に、あらかじめ存在するもの」として認知している主体がある。 この認知の内容が「世界」である。
つまり、能動的に世界を見出す主体と、客観的世界を受動的に認知する主体とがあるということ。
だけどこれでは、何が初めかわからない。ふたつの見方=主体が同時に成立していることになる。つまり、ふたつ(あるいはそれ以上)の見方=主体が同時に成立可能であると考えるのが合理的だ。
合理的であるはずなのだが、何故だか私には理解しがたい。
複数の主体が同時に(ひとつの中に)成立している!?
それが私なのか?
だとしても、私が見ているものが何なのか、私にはわからない。
(実はスベテはゴウリテキでないナニカによってデキテイル)
すべては「考え」「考え方」である。ただそう考えられるというだけ。
私がこれらの文章を作ったのは間違いないのだが、、、これは、私が、考えたもの、なのか?
残念ながら、いずれにせよ私は私の考えに惑わされてしまうのだ。
私は考えることに戸惑いを抱き続けざるをえない。
私が何も考えなければ、何も現れない。
何処にも何も無いはずなのに、、、 考えてしまう、、、、、、
こうして、考える私が考える、、、
(アワレナリ)
私がアル限り、すべては考えに閉じ込められる!
人間とはなにか?
実在するものも、現実世界も、森羅万象を解き明かす科学も、すべては人間がそのようにみているモノにすぎない。
「世界平和」も、「環境保護」も、「あらゆるものは平等である」という理念も、どれも人間が考えた、人間だけのための、耳ざわりのいい、実に空虚なコトバである。
人間以外の視点・立場が全く欠けている。
実に不完全な〈考え〉である。
すべて人間中心の発想だ。
人間はあらゆるものを人間的にみて、人間を主体にしてに考える。
人間として(人間を主体にして)考えることは、何をどのように考えようとも、人間中心のものである。どう見ても歪んでいるとしか言いようがない。キャッカンテキにミテ、奇形である。
人間であるという自覚を捨てなければならない。
人間であるという自覚だけを持って臨んではならない。
人間というものは無い。自分というものは無い。
自我というものは無い。自己というものは無い。
人間である私というものは無い。
なんらかの主体であるとき、その対象は限定される。
人間であるという自覚、あるいは自己・自我・自分・私という自覚をもった時点で、その世界は限定されている。
そして、そのままその世界に限定されてしまう。
そうとは気付かぬままに。
比喩もできないような、取るに足りない矮小な、いびつに歪んで偏った奇形なモノを、「現実・世界・宇宙・森羅万象」等と思い込んでいる。それを頼りにしている。
井の中の蛙どころのはなしではない。
不完全とかいうはなしではない。
人間として考えようとする限り、救いは無い。
人間として考えている限り、なにも解ることは無い。
実に、憐れである。
ひとごとではない!
「世界平和」も、「環境保護」も、「あらゆるものは平等である」という理念も、どれも人間が考えた、人間だけのための、耳ざわりのいい、実に空虚なコトバである。
人間以外の視点・立場が全く欠けている。
実に不完全な〈考え〉である。
すべて人間中心の発想だ。
人間はあらゆるものを人間的にみて、人間を主体にしてに考える。
人間として(人間を主体にして)考えることは、何をどのように考えようとも、人間中心のものである。どう見ても歪んでいるとしか言いようがない。キャッカンテキにミテ、奇形である。
人間であるという自覚を捨てなければならない。
人間であるという自覚だけを持って臨んではならない。
人間というものは無い。自分というものは無い。
自我というものは無い。自己というものは無い。
人間である私というものは無い。
なんらかの主体であるとき、その対象は限定される。
人間であるという自覚、あるいは自己・自我・自分・私という自覚をもった時点で、その世界は限定されている。
そして、そのままその世界に限定されてしまう。
そうとは気付かぬままに。
比喩もできないような、取るに足りない矮小な、いびつに歪んで偏った奇形なモノを、「現実・世界・宇宙・森羅万象」等と思い込んでいる。それを頼りにしている。
井の中の蛙どころのはなしではない。
不完全とかいうはなしではない。
人間として考えようとする限り、救いは無い。
人間として考えている限り、なにも解ることは無い。
実に、憐れである。
ひとごとではない!
考えること自体が間違い
本当にそうなのだ。その時、言葉ででもなく、考えとしてでもなく、ハッキリトワカッタ。
イツモ、ナニカヲカンガエテイルガ、ソレハヨクナイ
〈ソレ〉を仮に言葉にすれば「私たちは、常に根拠がアヤフヤな考えに囚われているが、それはどうしてもよくない」ということ。
コレを〈ワカル〉為には、知識や常識といった[考え]の参照の基準は全く役に立たない。というよりも邪魔である。
(なにしろ、「考え」を否定しているのだから)
(これで〈ワカル〉なら、以下は無用)
コレは理性が請け負える仕事ではない。
コレを〈ワカル〉のは〈考えに依存しない主体〉である。
(コレは、まず、理性を消滅させる為のモノである)
「言葉での説明は、きっと誤解され間違いを生む」ということを承知の上で、「何故、考えること自体が間違いなのか」ということを誰もが容易に納得できるように、言葉で(!)説明しようと思う。
実に単純な〈コト〉なのだが、「考えても無理、考えるから解らないのだ」と解りつつ(!)最善を尽くそうと思う。
まず、考えや理解は、常に[今体験し実感しているモノ]であると思いつつ吟味してほしい。
(これが重要!これができなければなんにもならない!)
(この[今体験し実感しているモノ]を笑い飛ばすため!)
考えることができるもの、言葉にできるもの、理性が扱えるもの、知覚できるもの、、、自分のあらゆる可能性、、、、それらには明らかにそれ相応の限界がある。
(これは納得できるはず)
どのような自覚を持つにせよ、[自分]も[世界]もそれらの限界の中にしか存在しえない。
(これも納得できるはず)
[自分]の限界を超えた〈ナニカ〉は一切知りえない。可能性を超えているので想像すらできない。〈ソレ〉は「未知」ではなく[不可知]である。
(これも納得できるはず)
『無限の可能性』という言葉も、この言葉を作る[今]想定される「無限の可能性」なので、[今の可能性]を微塵も超えることはない。ただの言葉である。
言葉にされるもの、想像できるものは〈ソレ〉ではない。
私たちは、「何か」を、「言葉」で、考える。
『私』が考える限り、その「何か」も「言葉」も常に『私』の主観に依存することを免れない。
客観的なもの=他者と共有できる事物・現実など[考え]の根拠にしているモノも、それらを常に無意識にそのように主観的にみなすことでしか作られない。
私たちは、私たちの可能性の限界を超えた無限の〈ナニカ〉があり、〈ソレ〉は[今]の私たちには[不可知]であるとハッキリと知らなければならない。
仮に〈ナニカ〉とか〈ソレ〉という言葉にするが、本来それは[不可知]である。[不可知]を示そうとする言葉自体が、まさに仮に想定された架空のモノ=無内容であるはずなのだ。
[考え]は信念・常識・知覚・認識・意識・記憶・情緒・欲望などの様々なものと、それらを根拠や基準として参照し採用する[その瞬間の主体]、これらがあって生まれるものである。
また、何故[主体]や[考え]が現れのるかはハッキリさせられない。あらゆる知識・智慧を駆使して説明しようとしても、閉ざされた[自分]という有限の世界の中で、限られた「言葉と意味」の組み合わせが無限に生産され続けるだけ。
[全て]は、このように絶対に知りえないモノゴトに依存しているのだが、何故か、私たちは常にこの認識を欠いている。
[考え]はいつでも自動的に展開されているが、その「もっともらしさ」というものは[考え]自体に依存する。「これは正しい」「これは間違い」とアタリマエのように考えていても、全ては[自分]という有限の世界の中でのこと。
根拠や基準は『私』の中にしかないのだ。
「これ」や〈ナニカ〉とかいう対象も[考え]が作っている。
何にも規制されない自由な[考え]が[全て]を捏造する。
そうして出来た世界に私たちは生きている。(と思っている)
気ままな思惟。架空の[全て]。都合のいい[考え]。
[全て]が[考え]によって閉じ込められている。
これらが、[今]の有限な[私たち・全て]の実態。
いったい「考えること自体が間違い」ということを、どのような観点から、どのような主体が、どのような意図をもって、主張しようとするのか?
(よくよく考えてみて欲しい)
考えることは自動的であり、止めることは容易ではない。
つい考えてしまう。いつも何か考えている。
それは、よくない。絶対に(!)間違う。
では、どうすればいい?
考えなければいい。
(何故なら、全ての言葉は架空のモノを指示するのであり、そのような言葉で考えるモノにはイミがナイから)
これは[考え]とは関係ない〈考えに依存しない主体〉に対する呼びかけだから、『私』が考える必要はない。
イツモ、ナニカヲカンガエテイルガ、ソレハヨクナイ
〈ソレ〉を仮に言葉にすれば「私たちは、常に根拠がアヤフヤな考えに囚われているが、それはどうしてもよくない」ということ。
コレを〈ワカル〉為には、知識や常識といった[考え]の参照の基準は全く役に立たない。というよりも邪魔である。
(なにしろ、「考え」を否定しているのだから)
(これで〈ワカル〉なら、以下は無用)
コレは理性が請け負える仕事ではない。
コレを〈ワカル〉のは〈考えに依存しない主体〉である。
(コレは、まず、理性を消滅させる為のモノである)
「言葉での説明は、きっと誤解され間違いを生む」ということを承知の上で、「何故、考えること自体が間違いなのか」ということを誰もが容易に納得できるように、言葉で(!)説明しようと思う。
実に単純な〈コト〉なのだが、「考えても無理、考えるから解らないのだ」と解りつつ(!)最善を尽くそうと思う。
まず、考えや理解は、常に[今体験し実感しているモノ]であると思いつつ吟味してほしい。
(これが重要!これができなければなんにもならない!)
(この[今体験し実感しているモノ]を笑い飛ばすため!)
考えることができるもの、言葉にできるもの、理性が扱えるもの、知覚できるもの、、、自分のあらゆる可能性、、、、それらには明らかにそれ相応の限界がある。
(これは納得できるはず)
どのような自覚を持つにせよ、[自分]も[世界]もそれらの限界の中にしか存在しえない。
(これも納得できるはず)
[自分]の限界を超えた〈ナニカ〉は一切知りえない。可能性を超えているので想像すらできない。〈ソレ〉は「未知」ではなく[不可知]である。
(これも納得できるはず)
『無限の可能性』という言葉も、この言葉を作る[今]想定される「無限の可能性」なので、[今の可能性]を微塵も超えることはない。ただの言葉である。
言葉にされるもの、想像できるものは〈ソレ〉ではない。
私たちは、「何か」を、「言葉」で、考える。
『私』が考える限り、その「何か」も「言葉」も常に『私』の主観に依存することを免れない。
客観的なもの=他者と共有できる事物・現実など[考え]の根拠にしているモノも、それらを常に無意識にそのように主観的にみなすことでしか作られない。
私たちは、私たちの可能性の限界を超えた無限の〈ナニカ〉があり、〈ソレ〉は[今]の私たちには[不可知]であるとハッキリと知らなければならない。
仮に〈ナニカ〉とか〈ソレ〉という言葉にするが、本来それは[不可知]である。[不可知]を示そうとする言葉自体が、まさに仮に想定された架空のモノ=無内容であるはずなのだ。
[考え]は信念・常識・知覚・認識・意識・記憶・情緒・欲望などの様々なものと、それらを根拠や基準として参照し採用する[その瞬間の主体]、これらがあって生まれるものである。
また、何故[主体]や[考え]が現れのるかはハッキリさせられない。あらゆる知識・智慧を駆使して説明しようとしても、閉ざされた[自分]という有限の世界の中で、限られた「言葉と意味」の組み合わせが無限に生産され続けるだけ。
[全て]は、このように絶対に知りえないモノゴトに依存しているのだが、何故か、私たちは常にこの認識を欠いている。
[考え]はいつでも自動的に展開されているが、その「もっともらしさ」というものは[考え]自体に依存する。「これは正しい」「これは間違い」とアタリマエのように考えていても、全ては[自分]という有限の世界の中でのこと。
根拠や基準は『私』の中にしかないのだ。
「これ」や〈ナニカ〉とかいう対象も[考え]が作っている。
何にも規制されない自由な[考え]が[全て]を捏造する。
そうして出来た世界に私たちは生きている。(と思っている)
気ままな思惟。架空の[全て]。都合のいい[考え]。
[全て]が[考え]によって閉じ込められている。
これらが、[今]の有限な[私たち・全て]の実態。
いったい「考えること自体が間違い」ということを、どのような観点から、どのような主体が、どのような意図をもって、主張しようとするのか?
(よくよく考えてみて欲しい)
考えることは自動的であり、止めることは容易ではない。
つい考えてしまう。いつも何か考えている。
それは、よくない。絶対に(!)間違う。
では、どうすればいい?
考えなければいい。
(何故なら、全ての言葉は架空のモノを指示するのであり、そのような言葉で考えるモノにはイミがナイから)
これは[考え]とは関係ない〈考えに依存しない主体〉に対する呼びかけだから、『私』が考える必要はない。
理性
理性が生み出す〔考え〕は曖昧で矛盾する。これが大前提。
理性は、本来言葉とは無縁のモノ・言葉に置き換えられないモノ、つまり五官が捉える〈ナニカ〉心に浮かぶ〈ナニカ〉をスンナリと言葉に置き換える。理性はこの自らの持つ魔法のような技術を知らずにいる。そして言葉に置き換えていることすら気にかけない。
あらゆる言葉、全ての言葉は、理性が「言葉とは無縁のモノ」を把握するため、示すため、扱うために作ったものである。
つまり理性は〈ナニカ〉を認知すると同時に〈それ〉を勝手に言葉にしてしまうのだ。
あまりに自然に言葉を使っているので、どのようにひとつひとつの言葉を教えられたのか、どのようにひとつひとつの言葉を学び・覚えたのかを忘れている。どうやって言葉の使い方を学び・覚えたのかを忘れている。言葉を学ぶ前のこと、言葉とは無縁の頃のことをスッカリと忘れている。
(どのように教えられたのか)
(どのように教えるのか)
言葉が示すものは〈ナニカ〉そのものではなく、理性の中にある意味や定義であり、〈ナニカ〉とは全然別のものである。しかし言葉が身についてしまったので、「言葉にされるものはそのようなものとして存在する」と思い込むようになっている。
理性は何事かについて「知っている、理解している」という。
それはその通り、全く正しい。
理性は「あらゆる物事を解明し理解できるだろう」と考える。
そう考える事も当然だ。
しかし問題は「理性には限界がある」とは考えないということである。理性は理性の働きについて、ハッキリ理解・自覚していない。これは致命的な欠陥である。
理性は何も明らかにしないし、何も解決できない。
理性はその時々の考えを信じ込んでいるにすぎない。
自分の考えを何の疑問も抱かずに、繰り広げたり反省したりしているだけ。納得できる考え、納得できる考え方を模索しているだけ。自分の考えに酔い痴れているだけ。
自分の「考え」の正しさを証明するのは、いつでも自分の「考え」の内容・成り立ちを正当化する働きである。いわば自家中毒のようなものである。
理性が知ろうとし、対象としている「世界」は、本当は理性とは無関係に実在する《世界》であるはずだ。しかし理性は《世界》ではなく「理性自らが作った架空の世界」を対象としている。理性はこのことに全く気がつかない。
理性の動機・目的・方法・手段、全てが的外れだ。
知りえないとは気づかずに、知ろうとしている。
(知ろうとすることに微かな望みはある)
理性は初めから終わりまで理性的ではない。理性は常に取り違えて勘違いしている。
理性がいつも懸命に考え、明らかにし解決しようとしているのは、元はといえば「ふと思いついたもの」である。心の中に現れては消えてゆく、とりとめのない言葉の連鎖の中に、ふと気になり注目したものにすぎない。「?なんだこれは?何か面白そうだ。ちょっと考えてみよう」という具合に。
理性は、それ自体が虚構である。全てが幻想である。自分の五官で感じているものも、自分で考えた事も、全てが幻覚・虚構である。
理性は、「客観的事実」は理性自身が作ったという自覚を欠いている。また理性は、「客観的事実」を理性とは関係なく存在するものだと錯誤している。そして「客観的事実」を考えの根拠にしている。
理性の拠り所は固定観念にすぎない。
理性の語る言葉は虚構である。
理性が理性に語りかけているだけ。
理性が見る世界は幻影である。
理性が理性に見せているだけ。
理性が理性を納得させているだけ。
それをただ単純に、理性が信じ込んでいるだけ。
納得できるものは、事実・真実・現実・信念となる。
何を納得しているのかというと、自己の内側に作られる虚構・幻影、架空の観念・概念である。
理性は、理性自身が自己の内側に作った架空の観念・概念を基礎・根拠とし、また素材にして、考察したり、推理したり、予測したりして、新たな観念・概念を作り続けている。それも理性自身にとって理解し易いように、都合のいいように。
しかし理性はこの事態を顧みることがない。
理性はこのように働くように、常に調整されている。
理性はあらゆるものを取り上げるが、理性自体を明確に検証することができない。何故なら、検証する目的も、検証する対象も、検証する方法も、全てが理性に依存するものだから。
これらが理性の性質・特徴・本質である。理性はこのように働いている。理性は必然的に理性自体に陥っている。
理性には主観的・個人的・独善的な考えしかない。自分の考えに納得し満足し安心し得意になっている。
憐れである。実に憐れだが、理性とはこういうものだ。
何故人間は常に理性に陥ってしまい、そこから脱け出せないでいるのか?
何故、何年も何十年も何百年も何千年も何万年もの間、同じようなことを思い悩んでいるのだろう?
理性は、本来言葉とは無縁のモノ・言葉に置き換えられないモノ、つまり五官が捉える〈ナニカ〉心に浮かぶ〈ナニカ〉をスンナリと言葉に置き換える。理性はこの自らの持つ魔法のような技術を知らずにいる。そして言葉に置き換えていることすら気にかけない。
あらゆる言葉、全ての言葉は、理性が「言葉とは無縁のモノ」を把握するため、示すため、扱うために作ったものである。
つまり理性は〈ナニカ〉を認知すると同時に〈それ〉を勝手に言葉にしてしまうのだ。
あまりに自然に言葉を使っているので、どのようにひとつひとつの言葉を教えられたのか、どのようにひとつひとつの言葉を学び・覚えたのかを忘れている。どうやって言葉の使い方を学び・覚えたのかを忘れている。言葉を学ぶ前のこと、言葉とは無縁の頃のことをスッカリと忘れている。
(どのように教えられたのか)
(どのように教えるのか)
言葉が示すものは〈ナニカ〉そのものではなく、理性の中にある意味や定義であり、〈ナニカ〉とは全然別のものである。しかし言葉が身についてしまったので、「言葉にされるものはそのようなものとして存在する」と思い込むようになっている。
理性は何事かについて「知っている、理解している」という。
それはその通り、全く正しい。
理性は「あらゆる物事を解明し理解できるだろう」と考える。
そう考える事も当然だ。
しかし問題は「理性には限界がある」とは考えないということである。理性は理性の働きについて、ハッキリ理解・自覚していない。これは致命的な欠陥である。
理性は何も明らかにしないし、何も解決できない。
理性はその時々の考えを信じ込んでいるにすぎない。
自分の考えを何の疑問も抱かずに、繰り広げたり反省したりしているだけ。納得できる考え、納得できる考え方を模索しているだけ。自分の考えに酔い痴れているだけ。
自分の「考え」の正しさを証明するのは、いつでも自分の「考え」の内容・成り立ちを正当化する働きである。いわば自家中毒のようなものである。
理性が知ろうとし、対象としている「世界」は、本当は理性とは無関係に実在する《世界》であるはずだ。しかし理性は《世界》ではなく「理性自らが作った架空の世界」を対象としている。理性はこのことに全く気がつかない。
理性の動機・目的・方法・手段、全てが的外れだ。
知りえないとは気づかずに、知ろうとしている。
(知ろうとすることに微かな望みはある)
理性は初めから終わりまで理性的ではない。理性は常に取り違えて勘違いしている。
理性がいつも懸命に考え、明らかにし解決しようとしているのは、元はといえば「ふと思いついたもの」である。心の中に現れては消えてゆく、とりとめのない言葉の連鎖の中に、ふと気になり注目したものにすぎない。「?なんだこれは?何か面白そうだ。ちょっと考えてみよう」という具合に。
理性は、それ自体が虚構である。全てが幻想である。自分の五官で感じているものも、自分で考えた事も、全てが幻覚・虚構である。
理性は、「客観的事実」は理性自身が作ったという自覚を欠いている。また理性は、「客観的事実」を理性とは関係なく存在するものだと錯誤している。そして「客観的事実」を考えの根拠にしている。
理性の拠り所は固定観念にすぎない。
理性の語る言葉は虚構である。
理性が理性に語りかけているだけ。
理性が見る世界は幻影である。
理性が理性に見せているだけ。
理性が理性を納得させているだけ。
それをただ単純に、理性が信じ込んでいるだけ。
納得できるものは、事実・真実・現実・信念となる。
何を納得しているのかというと、自己の内側に作られる虚構・幻影、架空の観念・概念である。
理性は、理性自身が自己の内側に作った架空の観念・概念を基礎・根拠とし、また素材にして、考察したり、推理したり、予測したりして、新たな観念・概念を作り続けている。それも理性自身にとって理解し易いように、都合のいいように。
しかし理性はこの事態を顧みることがない。
理性はこのように働くように、常に調整されている。
理性はあらゆるものを取り上げるが、理性自体を明確に検証することができない。何故なら、検証する目的も、検証する対象も、検証する方法も、全てが理性に依存するものだから。
これらが理性の性質・特徴・本質である。理性はこのように働いている。理性は必然的に理性自体に陥っている。
理性には主観的・個人的・独善的な考えしかない。自分の考えに納得し満足し安心し得意になっている。
憐れである。実に憐れだが、理性とはこういうものだ。
何故人間は常に理性に陥ってしまい、そこから脱け出せないでいるのか?
何故、何年も何十年も何百年も何千年も何万年もの間、同じようなことを思い悩んでいるのだろう?
言葉
言葉で言い表そうとして、説明・記述する。
何度も推敲して、なんとか納得のいく文章を書き上げる。
しかし、駄目だと思う。
まるでなってない、と思う。
まずい文章だと思う。
綻びだらけ、矛盾だらけ、伝わらない、誤解される。
考えるに幾つかその原因は思いつく。
こんなことが言いたい、自分のこういう考え方・理解・認識を知ってもらいたい、というのが初めにあった。けど、いつしか個人的な何かが、私的な何かが、より強く支配的に働くようになっていたのだ。というのが、まずひとつ。
そもそも、言いたい事なんて無かったのかもしれない、とすら思えてくる。何も明確では無かったのだ。何かを言おうとしていたのは事実なんだけど、その何かというものが自分にもはっきりとは解っていないのだろう。これがふたつめ。
みっつめはもっと根本的で深刻だ。つまり、言葉が予め不能だということ。言葉で何かを言い表すことが、初めから無理なんだということ。
より正確に精密に表現しようとすると無限の論理地獄が待っている。
そこでは考える事が無意味になる。
そこではもう表現なんてできない。
そもそも言葉とはなにか?
何かの象徴・記号・表現・代用・置換・抽象。
そのようなものとして言葉を使っている。
言葉を使って何かを言おうとしている。
そして自ら発する言葉には、言葉にできなかった何かが秘められている。言葉に何かを籠めている。
では自分の言葉に秘めているもの、籠めているものは言葉に出来ないのか?それは決して言葉に置き換えられないのか?
もしかしたらそれは『意味』あるいは『意図』なのかもしれない。
言葉とはなにか。言葉の成り立ちとはなにか。言葉の一歩手前のものとはなにか。言葉の意味とはなにか。意味とはなにか。
眺める、見る、見つける、見出す、見つめる、見てとる、見抜く、見透かす、見誤る、、、その時の意識の状態と意識の作用。そこにおいて言葉は何か関わっているのか。
行為・意識・思考・解釈・意図、、、それらの相互作用。時間の経過とともに次々新しくなっている。それぞれの役割、理性の関与。瞬間の認識・自覚を言葉で考え表現する。
考える為には、考える為の前提として、考える為に使う言葉の意味を仮定する必要がある。
誰かが、どこかに記述されている言葉を、そのまま理解したとしても、それらの言葉はそのように理解されてはならない。それは完全な誤解である。
自分は、自分の言葉を理解して欲しくて話すのではない。
話されてはいないコト、話されてはいないモノ。話すことができないモノゴトがアル。
伝えたいモノは言葉に出来ない。話す言葉は、何かを伝えようとしているが、話す言葉そのものには、なにもない。
どんなに多くの言葉を費やしても、それらの言葉からは伝えたいモノは伝わらない。
言葉を使って表現しようとしているが、表現しようとしているモノは言語化できない。
伝えたいモノは言葉に出来ないが、やはり言葉に頼ることより他は無さそうだ。
ソレラを言葉を使わずに納得することを望んでいる。
何度も推敲して、なんとか納得のいく文章を書き上げる。
しかし、駄目だと思う。
まるでなってない、と思う。
まずい文章だと思う。
綻びだらけ、矛盾だらけ、伝わらない、誤解される。
考えるに幾つかその原因は思いつく。
こんなことが言いたい、自分のこういう考え方・理解・認識を知ってもらいたい、というのが初めにあった。けど、いつしか個人的な何かが、私的な何かが、より強く支配的に働くようになっていたのだ。というのが、まずひとつ。
そもそも、言いたい事なんて無かったのかもしれない、とすら思えてくる。何も明確では無かったのだ。何かを言おうとしていたのは事実なんだけど、その何かというものが自分にもはっきりとは解っていないのだろう。これがふたつめ。
みっつめはもっと根本的で深刻だ。つまり、言葉が予め不能だということ。言葉で何かを言い表すことが、初めから無理なんだということ。
より正確に精密に表現しようとすると無限の論理地獄が待っている。
そこでは考える事が無意味になる。
そこではもう表現なんてできない。
そもそも言葉とはなにか?
何かの象徴・記号・表現・代用・置換・抽象。
そのようなものとして言葉を使っている。
言葉を使って何かを言おうとしている。
そして自ら発する言葉には、言葉にできなかった何かが秘められている。言葉に何かを籠めている。
では自分の言葉に秘めているもの、籠めているものは言葉に出来ないのか?それは決して言葉に置き換えられないのか?
もしかしたらそれは『意味』あるいは『意図』なのかもしれない。
言葉とはなにか。言葉の成り立ちとはなにか。言葉の一歩手前のものとはなにか。言葉の意味とはなにか。意味とはなにか。
眺める、見る、見つける、見出す、見つめる、見てとる、見抜く、見透かす、見誤る、、、その時の意識の状態と意識の作用。そこにおいて言葉は何か関わっているのか。
行為・意識・思考・解釈・意図、、、それらの相互作用。時間の経過とともに次々新しくなっている。それぞれの役割、理性の関与。瞬間の認識・自覚を言葉で考え表現する。
考える為には、考える為の前提として、考える為に使う言葉の意味を仮定する必要がある。
誰かが、どこかに記述されている言葉を、そのまま理解したとしても、それらの言葉はそのように理解されてはならない。それは完全な誤解である。
自分は、自分の言葉を理解して欲しくて話すのではない。
話されてはいないコト、話されてはいないモノ。話すことができないモノゴトがアル。
伝えたいモノは言葉に出来ない。話す言葉は、何かを伝えようとしているが、話す言葉そのものには、なにもない。
どんなに多くの言葉を費やしても、それらの言葉からは伝えたいモノは伝わらない。
言葉を使って表現しようとしているが、表現しようとしているモノは言語化できない。
伝えたいモノは言葉に出来ないが、やはり言葉に頼ることより他は無さそうだ。
ソレラを言葉を使わずに納得することを望んでいる。
実在とは?
『実在』とは何か?
何を『実在』とみなすべきか?
一般的には「理性の働きとは関係なく、認識主体から離れて存在するもの」と定義されている。
しかしこれでは「理性には知ることも考えることもできないもの」になってしまう。
この「定義」は不合理か?それともやはり合理的か?
たとえば「今まさに〇〇を見ている」という切実な体験をしている時には、「〇〇」という知覚イメージや「〇〇」についての認識や定義は容易に確認できる。そしてそれらを基にしてごく自然に「〇〇は実在する」とみなしている。
しかし「〇〇」をじっと見つめていると、知覚イメージや認識や定義がいつのまにか変化してゆくことがある。
この「変化」は「〇〇」自体によるものではなく、見ているこちら側によるものである。つまり「〇〇をそのまま見ている」のでなく、認知する働きが「〇〇」を成立させ、「〇〇を見ているという切実な体験」をも可能にしているのである。
「〇〇」はその瞬間の主観的な知覚・知識・意識状態などに依存する、いわば幻(オリジナルが無いもの)である。
つまりは「その瞬間毎の自己の内部の幻影を『外部に実在するもの』とみなしている」ということである。
では、「耳で聴いているもの」とは何か?
耳の中では、まず鼓膜が空気の微細な圧力の変化を受けて振動している。振動は別の信号に変換されて脳へ伝わる。鼓膜はただ震えているだけで、どのような音も声も言葉も意味も識別してはいない。耳は単に空気の振動を検出する器官であり「何かを聴く器官」ではない。
「感覚・五感」とは、感覚器官が受けた刺激を脳が処理したうえで編成し構築する知覚に対する「解釈」である。つまり「五官でとらえ感じているもの」は、実際には理性や認識主体が知覚を基に独自に創る実在しないもの=幻覚である。
また、考える為には「言葉には意味や定義がある」「事物には名称がある」「言葉にされるものはその意味や定義を具現して存在する」「名称の無い対象にも名付けることができる」「自分の知覚や考えは自然であり、何にも規制されていない」などと思い込んでいる必要がある。
そして、それらを基にした恣意・思考が終始肯定されるように働いている必要がある。
しかし、これらは決して充分に検証されることがない。検証に耐えられない、作られた危うい信念である。
疑われることの無い信念は、更にまた別の概念・観念・信念を次々と連鎖的に生み出す素材や要因となる。
理性的主体が機能できるのは、言葉や知覚やそれらを統合した〈世界〉や〈自己〉などの〈あらゆる事物〉が「無条件に確立している」ということを前提にしているからである。
〈全て〉を常に無自覚に意味付けし補完・維持し、その結果現れる〈全て〉をただ信じ込んでいられるからである。
こうした自覚し難い形成作用と単純な信念がなければ、どのような〈世界〉も〈自己〉も整然とは現れない。
これは主体・主観(知覚や認識)のあり方次第で、〈全て〉がどのようにも変わりうる、ということをも示している。
日常の生活の中で、自分で感じたものや考えたことを、そのまま何も疑わずに単純に信じ込んでいるのは、本当は無知そのものであり〈真に理性的な態度〉とは言えない。
この無知や根拠の無い信念が、理性にはあらかじめ解決不能な様々な矛盾や混乱を生む原因であると気付くべきである。
「実在」や「存在する」などの言葉も、知覚や認識を基盤・前提にした「論理」の中で、単に言葉として使うだけなら(錯誤ではあるが)理性にとっては問題は無いかもしれない。
問題なのは、あらゆる論理・秩序・因果関係・真理、また世界や自己など全てが「理性が創出した『考え』にすぎない」という本来の性質や制約を〈忘れてしまう〉ということである。
〈全て〉は、理性が「それ」として認めるからこそ、理性を超えるものとしては、理性には実証できない。
知りえない《実在》に対して「考え」をあてはめようとすることは、はじめから理不尽であり、また不可能なのである。
成り立ちからして、既に自ずから完全に閉じた中にある〈無常な主体〉には、いつでも独善的な認知や論理や心など〈人間的なあらゆるもの〉があるだけである。
〈全て〉は理性や主体の為に、その瞬間瞬間に無意識に生成・仮定・定義されるもの、架空のもの、実在しないものである。
これらを事実・真実だと認められるなら、「全ては架空のものであり実体が無い」ということや、「実体が無いものを実在するものとしている」ということが明らかになる。
考える主体も、それが考えた事柄も、明らかになった事柄も、それを明らかにした主体も、ただ一時のもの。
主体が無ければ何も現れず、全く何も無いはずである。
これらは純粋な「考え」である。もっともらしい言葉の羅列にすぎない。どのようなものであれ、理性の生み出すものには決してとらわれてはならない。
一般的には「理性の働きとは関係なく、認識主体から離れて存在するもの」と定義されている。
しかしこれでは「理性には知ることも考えることもできないもの」になってしまう。
この「定義」は不合理か?それともやはり合理的か?
たとえば「今まさに〇〇を見ている」という切実な体験をしている時には、「〇〇」という知覚イメージや「〇〇」についての認識や定義は容易に確認できる。そしてそれらを基にしてごく自然に「〇〇は実在する」とみなしている。
しかし「〇〇」をじっと見つめていると、知覚イメージや認識や定義がいつのまにか変化してゆくことがある。
この「変化」は「〇〇」自体によるものではなく、見ているこちら側によるものである。つまり「〇〇をそのまま見ている」のでなく、認知する働きが「〇〇」を成立させ、「〇〇を見ているという切実な体験」をも可能にしているのである。
「〇〇」はその瞬間の主観的な知覚・知識・意識状態などに依存する、いわば幻(オリジナルが無いもの)である。
つまりは「その瞬間毎の自己の内部の幻影を『外部に実在するもの』とみなしている」ということである。
では、「耳で聴いているもの」とは何か?
耳の中では、まず鼓膜が空気の微細な圧力の変化を受けて振動している。振動は別の信号に変換されて脳へ伝わる。鼓膜はただ震えているだけで、どのような音も声も言葉も意味も識別してはいない。耳は単に空気の振動を検出する器官であり「何かを聴く器官」ではない。
「感覚・五感」とは、感覚器官が受けた刺激を脳が処理したうえで編成し構築する知覚に対する「解釈」である。つまり「五官でとらえ感じているもの」は、実際には理性や認識主体が知覚を基に独自に創る実在しないもの=幻覚である。
また、考える為には「言葉には意味や定義がある」「事物には名称がある」「言葉にされるものはその意味や定義を具現して存在する」「名称の無い対象にも名付けることができる」「自分の知覚や考えは自然であり、何にも規制されていない」などと思い込んでいる必要がある。
そして、それらを基にした恣意・思考が終始肯定されるように働いている必要がある。
しかし、これらは決して充分に検証されることがない。検証に耐えられない、作られた危うい信念である。
疑われることの無い信念は、更にまた別の概念・観念・信念を次々と連鎖的に生み出す素材や要因となる。
理性的主体が機能できるのは、言葉や知覚やそれらを統合した〈世界〉や〈自己〉などの〈あらゆる事物〉が「無条件に確立している」ということを前提にしているからである。
〈全て〉を常に無自覚に意味付けし補完・維持し、その結果現れる〈全て〉をただ信じ込んでいられるからである。
こうした自覚し難い形成作用と単純な信念がなければ、どのような〈世界〉も〈自己〉も整然とは現れない。
これは主体・主観(知覚や認識)のあり方次第で、〈全て〉がどのようにも変わりうる、ということをも示している。
日常の生活の中で、自分で感じたものや考えたことを、そのまま何も疑わずに単純に信じ込んでいるのは、本当は無知そのものであり〈真に理性的な態度〉とは言えない。
この無知や根拠の無い信念が、理性にはあらかじめ解決不能な様々な矛盾や混乱を生む原因であると気付くべきである。
「実在」や「存在する」などの言葉も、知覚や認識を基盤・前提にした「論理」の中で、単に言葉として使うだけなら(錯誤ではあるが)理性にとっては問題は無いかもしれない。
問題なのは、あらゆる論理・秩序・因果関係・真理、また世界や自己など全てが「理性が創出した『考え』にすぎない」という本来の性質や制約を〈忘れてしまう〉ということである。
〈全て〉は、理性が「それ」として認めるからこそ、理性を超えるものとしては、理性には実証できない。
知りえない《実在》に対して「考え」をあてはめようとすることは、はじめから理不尽であり、また不可能なのである。
成り立ちからして、既に自ずから完全に閉じた中にある〈無常な主体〉には、いつでも独善的な認知や論理や心など〈人間的なあらゆるもの〉があるだけである。
〈全て〉は理性や主体の為に、その瞬間瞬間に無意識に生成・仮定・定義されるもの、架空のもの、実在しないものである。
これらを事実・真実だと認められるなら、「全ては架空のものであり実体が無い」ということや、「実体が無いものを実在するものとしている」ということが明らかになる。
考える主体も、それが考えた事柄も、明らかになった事柄も、それを明らかにした主体も、ただ一時のもの。
主体が無ければ何も現れず、全く何も無いはずである。
これらは純粋な「考え」である。もっともらしい言葉の羅列にすぎない。どのようなものであれ、理性の生み出すものには決してとらわれてはならない。
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