秩序

考えうるあらゆる物事、考えうるあらゆる要素、考えうるあらゆるすべてを貫く秩序・法則がある。
ミクロからマクロまですべてを貫く秩序・法則がある。


考えられないこと、知りえないこと、別の次元のこと、思うこともできないこと、それらのすべてを貫く秩序・法則がある。
と、推測される秩序・法則がある。と、推測される。



その秩序・法則は、考えることも知ることもできないはず。
何故なら、考えることも知ることもその秩序・法則に従っているから。

既に成立しているものが、その成立の根源をそれ自身によって対象化することは可能か?

閉塞状態

何故かは不明だが、私には私の世界(観)がある。
そして誰にも同じように世界(観)がある、と思う。

私の「世界」は誰にとっても「世界」でありうるか?
誰かの「世界」は私の「世界」と同一か?

「世界」って一体なんだろう?
それは、どこに?どのように成り立っているのか?
何故、世界(観)があることを疑問に思わないのだろう?

これらは、キチンと考えられなければならないコトである。

よくよく考えると、私は「私の世界の中に成立するモノゴト」に依存すること無しには何も考えることができない、ということが解る。
誰とでも共有できる「普遍的な事物」や「客観的な世界」も、各個人が各々の様式・性質・能力等に依ってそれを見出している、というような全く矛盾したモノである。

私が眼を閉じると私の(視覚)世界は消失する。
眼を開けた瞬間に視界は組み立てられる。

「世界」はあらかじめ有るのではない。
どのような「世界」も、私の認知に依存する。
私の認知の結果として「私の世界」は現れる。
「認知」以前に「世界」は成立していない!

「認知」によって「世界」を見出すのはのはヒトだけである。
、、、とも考えられている。
ヒト以外の生物、生物以外の存在には、、、世界は、、、?、、、?
(矛盾した疑問。「認知」に依らないモノには「世界」なんて無い!)

「ひとつの世界」って何だ?、、、何処にも無いのに、、、。
何故?そんなモノを有るはずのモノとして想定するのか?
何故かは解らないが私はソレラを根拠にせざるをえないのだ。


こんな「私の世界」ってなに???
これが世界なの?
こんなの世界ではない!

私は、私の認知は、私の世界は、完全に閉ざされている。
このように「私」と「認知」と「世界」が三位一体となりスベテを生成しているのだから、起点となるモノすらはっきりさせられない!


私が私の世界について私なりに考えると、こうならざるを得ない。

、、、という「考え」・「世界観」はダレのもの?
ホントウノセカイッテナニ???

絶対不可避の「解釈」

この世界。私の世界。
私の五感や私の思いや考えによって作られている私の世界。
お馴染みの世界。あたりまえの世界。
私はこの世界の中で様々なものを見たり感じたりしている。私はこの世界の色々な物事について考えたりする。
まるで全てが私と無関係に存在しているかのように、、、

今私の目の前にある物はワタシがコノヨウナモノだとミルからこのようにある。 私が思い浮かべる物事も人物も何もかも全てが、ワタシがソウオモウからこそそのように思うことができるのだ。
(私やワタシという主体さえもこうしてツクラレテシマウ)

無自覚に認知するものや心に浮かぶものスベテを無条件にそのようなものとして自覚的に実際的なものとして扱っているだけ。
(何故かいつの間にかそのようなモノがソウシテイル)

だから、眼で見ているあらゆるモノも思い浮かべるどんなモノもスベテが不安定で不完全である。
たとえばナニカを「これ」として見れば「これ」だと思えるし、「コレ」だと思えば「コレ」のように見えてしまう。見方・捉え方・感じ方・考え方で全く違うものをみいだしている。
それは認知する主体が不安定で不完全だからだろう。

不安定だから時によって違って見えるし、不完全だからそのようなものをみいだしてしまうのだ。

私が認知する全ては私の解釈(絶対に意識できない独自の形成作用)に依存せざるをえない。 そして当然この〈解釈の結果現れるもの〉は私だけのものである。
(私のスベテはソレラで作られている!)
そうではないモノが有るとしても、私はソレを知りえない!
私にとってはそのようなモノ(が存在するということ)は存在しないことと同じである。
私の世界にあるもの、認知されるあらゆる全ては〈解釈〉というその一瞬の〈結果〉である。
どんなにリアリティーがあるものでも、全ては別の場面・状況あるいは別の意識状態では別の解釈が可能なモノである。

全ては(その瞬間の)解釈の結果であり、実際にはどのようなモノも(解釈無しには)存在しない。
全ては架空のものであり、そう思う瞬間に実在すると思えるだけ。
全ては常ならざるものであり、永遠に変わらぬものなど無い。
そのようなものが有ると思うのはただそのような思いにすぎない。
(不変のものも無常のものもナニも無い。ただコトバがあるだけ)
、、、と考える私自体が無常のモノである。、、、という考え自体が一瞬のものである。
考えは考えにすぎない!思いは思いにすぎない!
(ソレラは次に現れる考え・思いにより忘れられ消え去る)
このことをハッキリ自覚しなければナニも始まらない!

自分の瞬間的な認知や解釈に囚われている結果こうなっている。
(自分自体のことをわからぬまま)

自分の直感を無闇に信じてはならない。
自分の直観をただ信じ込んではいけない。
何故なら、直感も直観も全てが無意識に行われる解釈(無自覚な決め付け)の結果だから。 それらは実際には独自な感覚や観察にすぎない。ただ単に(私にとって)スンナリと馴染むだけ。
私の(混沌とした)内部でつくられていることに気付かないだけ。
純粋な直感というものは無いし、無垢な直観というものも無い。

自分を信じるということは自分を疑わないということであり、無自覚(本質的に独善的かつ利己的)であり続けようとすることである。
しかし、日常では自分の全てをただ信じている。言い換えると日常的に自分の直感・直観・自覚・認知などに囚われているということ。 つまり〈自分・私〉が無意識に生み出す(固定観念とでも言うべき)ものに自らを(つまり全てを)閉じ込めているということ。
(自分の認知や理性が不安定でも不完全でもないと思うなら、早急に全てを疑う必要が有る)
囚われている(=ただ信じている)ことに気付いていないからこそ、それら(キャッカンセイの無い私的なもの)を根拠に平然と(非)理性的に考えることができる。



この世界は私だけの世界。
 私が根拠とするスベテはこの私の世界の中にしか無い。
(完全な自家中毒である。私は私の生み出す毒によって作られる)

私は自らの直感や直観(独自な条件反射の結果生成されるもの)を考えの素材・根拠にせざるをえない。(私にとっての)現実とか客観的な事実とかありのままに認知されるものというものも、実際にはこうした意識できない解釈(根拠の無い形成作用)の結果だけが基礎になっている。
全ては私の意識の一部・全体の一部・〈私〉の迷妄、思い上がり、暴走の結果である。

何故、どう考えてもただの(反射的な)解釈にすぎないものが全ての根拠や前提になるのだろう?
信じるべきモノなど(私の世界以外には)ドコにも無いのに!
自らの成り立ちを顧みないことが、自らを矮小な存在にしている。
(もともとどんな自分も、、、スベテが架空のモノなのだが、、、)

結論

「わからない」 というのが唯一の 「答え」

わたし

わたしは、いま、ここに、こうして存在している。
わたしはそのように感じ、そう思っている。
そのようにわたしは考えている。

世界も、わたし自身も、わたしが考える様に存在している。
わたしはそう思い、そう信じている。
わたしはそう感じ、そう思い、そう考え、それを疑わずに信じている。

では、 その考えや信念は、いったい何によってもたらされるのか?
その根拠は何か絶対的なものなのか?
そのアイディアを支えているのは、一体なんなのか?

わたし自身も
わたしの世界も
わたしが感じる全てのモノも
わたしが考える全てのモノも
わたしが信じる全てのモノも
わたしが知りうる全てのモノも

あらゆる全てのモノは
わたしによって感じられるのであり
わたしによって考えられるのであり
わたしによって信じられるのであり
わたしによって知られるのである

わたしは、見る。
わたしは、眼で見る。 
わたしは、眼を使って、見ている。

わたしは、世界を、見る。
わたしが、世界を、見ている。
わたしが、世界を、見いだしている。

わたしの見る世界は、わたしが見る様に存在している。
何故なら、わたしが、世界を、そう見ているから。

わたしの考える世界は、わたしが考える様に存在している。
何故なら、わたしが、世界を、そう考えているから。

わたしの考える物事は、わたしが考える様に存在している。
何故なら、わたしが、物事を、そう見ているから。

わたしが思い描く世界は、わたしが思い描くことによって成り立つ。

わたしが信じる様に、全ては存在している。

わたしの世界をみいだすモノは、わたし以外に、無い。

わたしが考える以前には、考えられるようなモノは、ナニも存在しえない。

わたしが考える全ては、わたしの考えに依存している。

わたしがその存在を認めるから、それは存在することになる。

わたしが、全てを、存在させている。
わたしが、全てを、作りだし、生み出している。

わたしが、わたしの、内も、外も、つくり 、
わたしが、常に、維持し続けている。



そうして、わたしの世界を、つくりあげ
わたし自身をも、つくりあげているという
ワタシ、というのは、、、






ナニ??????








わからない


誰にも、ナニにも、知ることはできないだろう
ソレは知りえないモノ、純粋な謎、
予め無いモノ、あるはずの(無い)モノ、、、、。

脳科学

すべては脳に依存する。脳に依存しないモノはない。
という考えは当然、脳に依存する。
という考えも脳に依存する。と、考えられる。
やはり全ては脳に依存する。としか考えられない。
(すべてを脳の働きに還元できるのか?脳は何かに依存していないのか?)

脳のことを気にするのはナニ?それはやっぱり脳なの?
大脳?新皮質?新新皮質?前頭葉?、、?、、ネットワーク?、、何?、、、?
それは、わからない。と、脳は(?)考える。

なにせ、一千億もの細胞から成る脳の振る舞い(のある一瞬)を、その脳自体が(どうやっているか見当もつかないが)幾つかの言葉に置き換えるなんて、無理なんだ。
結局は何も解明されない。解明されるはずがない。
と、脳が(?)考える。

考える上では、脳というものも、他のあらゆる言葉にされうる概念・観念・事物と同様のものである。
ただ「脳」が特殊なのは、(私の)考えの中ではあらゆるものが脳の働きに依存しているかのように考えられてしまう、ということなのだ。
(この考えに捕らわれてはならない)

私のすべてが脳に依存することは間違いない。脳がなければ私のすべてが成り立たない。

脳が全てだ、と証明するのが脳って、、アハハハハ、、、、
脳科学とかいっても全ては推測、もっともらしい単なる考え。
という考えは、やはり脳に依存する。と、考えられる。
もっともらしい単なる考え。
それを根拠にしている。アハハハハ、、、、、

と、笑っていてもしょうがない。

主観でないもの

「主観でないもの」とはなにか?

目の前にあるもの、客観的事実、科学・法則・原理・因果律‥‥。
それがいかに主観ではないのかを証明せよ。


不可能である。
証明するためには主観が必要になる。

なにかが主観ではないことをを証明しようとする試みは、それが主観的なものであることを証明することになる。

「主観でないものはなにか?」
主観が働き出した時点で、全ては主観になる。
知ろうとするものは、全ては主観になる。
考えているかぎり、全ては主観になる。
主観でない「もの」は存在しない。
「もの」として捉える物事は全て、そのように捉える以前に主観が生み出しているので「主観でないものはなにか?」という疑問は初めから矛盾している。

この疑問は、曖昧であやふやな理性が、ふとした思い付きで生み出したものである。何かを期待して。

言葉の可能性

当然だが「言葉」に固有の意味は無い。そして「言葉」の使い方は自由であり、どのような「言葉の組み合わせ」も可能である。

気が付くと、私は、何故かは解らないが、アレコレと考えている。
心に浮かぶ様々な物事について、私の認知する「世界」のあらゆるモノゴトについて、いつとはなしに言葉で考えている。
考えることで「世界」を無意識に補完・維持している。

知覚・解釈・実感・認識・記憶・理解・固定観念・既成概念・客観的普遍的事物・常識などの言葉にされ(う)るものの意味・内容が「私の世界」を構築する。 つまり「世界」とは「言葉」で描写・記述され(う)るもののことである。言葉で考えられるモノが私の世界の全てである。

それにしても、何故、私は、いつも、 言葉で、考えるている、のだろうか?
これが解れば全ての謎があっさりと解けるはずなのだが、、、
(言葉で考えても絶対に無理だということだけは解る)

「言葉」そのものは空虚な器であり、何かを仮に把握する為の抽象・記号にすぎない。
そうした性質の「言葉」によって「生成されるイメージ」は、言葉が示そうとする「何かそのもの」とは全く異質のものである。
私には「言葉」によって私の内部にイメージされる架空の「事物・現実」を扱うことしかできない。

「言葉が示そうとするもの」は「言葉が描写する世界」の中には有る。しかし言葉の可能性を超えたジッサイノセカイには言葉も・考えも・思いも・感覚も・なんにも及ばない。
ソレは私には微塵も知ることのできないセカイ。
 対象化できないセカイ。ソコには私すら無い。
ソレについて、私には、何も、言うことが、できない。
ところが私には何故かそのような自覚は無いし、このことは決して顧みられることがない。
なので平気で「私はあらゆる物事について考えることができる」とか
「私が考えることができる物事が実質的に(私の)世界を構成している」などと思っている。


ひとつひとつの「言葉」は既成のものである。辞書を引いたりして調べれば意味や使い方は解る。 しかしそうして解るのはその言葉の「一般的な意味や用法」であって、肝心の「実際に使われている言葉の意味・意図・文脈」は決して解らない。
全ての言葉(が示すもの)は「私が推測するしかないもの」である。

私は言葉の定義というものを怪しく思う。
何故?何の為に?辞書の類いが(いくつも)有るのだろう?
言葉の意味や用法を調べてどうするのか?
結局は推測の手掛りにしかならないし、そこには知らぬ間に「言葉」に囚われてしまう危険性がある!
つまり言葉を、言葉にされ(う)るモノを、言葉の意味や意図を、無闇に信じ込んで「私の世界」の基盤・要素・前提にしてしまうという成り行きを自らが無自覚に促進・強化してしまうということ。
この、言葉で描写され(う)る理性的現実的(とみなされる架空の)世界をジッサイノセカイと取り違えてしまうようになってしまうということ。
これは「とても危険である」と自覚しなければならない。
「世界」というのは「私の世界」であり「私だけの世界」にすぎない。

私には言葉という器の中身である意味・意図・文脈つまり言葉の働きだけがモンダイであり、ナニカを言葉とはベツノモノでヒョウゲンできるなら言葉はあまり必要ではない。
(言葉は効率的でないうえ極めて扱いの難しい媒体だと思う)

私は自分の言葉を辞書にあるような意味と矛盾しないように使っているのだが出来上がった文章は「意味がつかみにくい、なんだか解らないもの」になっているようなのだ。
これではダメだと思う。だけど仕方がないし構わないと思う。
「言葉」はこのような使われ方には耐えられないのだ。
私は言葉の可能性を試しているのかもしれない。
こうやって言葉で(私なりの)実験をしているのだと思う。
何か(言葉とは別の次元のモノ)を「言葉にできる」と思うこと自体が勘違いだし、何かを「言葉で表現できた」と考えることも単なる錯誤にすぎないのだけど、、、
いつまでもどこまでもこんな「言葉」に頼っていていいのだろうか?

言葉と意味とを一旦切り離す必要があるのかもしれない。
「言葉によらない理解」について追求するべきかもしれない。
それともアタラシイコトバが必要なのだろうか?
あるいは認知の様式の変化?理性の進化?
(でもそれだけでハッキリトワカルヨウニナルのだろうか? )

はたして、言葉の可能性とは、、、?

何かを見たり、聞いたり、何かについて考えたり、思い浮かべたりすると、〈そのようなもの〉が「実際に有る」と思うようになってしまう。
それが実在することが前提になってしまう。

あらかじめ存在するものなど無い。
あらかじめ存在しないものは、知りえない。

知っているもの、知りうるものは、そのように想定されるものである。
そのように具現化されたものである。
もともとはそんなものはなにもない。

主体の謎 謎の主体

私はいつも何かを考えたり何かをしている。 これらは常に意識的であり主体的であり能動的である。
と、考えがちだが、よくよく観察するとそれらの思惟・行為は、厳密には反射的かつ連鎖的であり、むしろ無意識的であるように思える。

「私は考えている」とは言えるが、考えているのは私なのだろうか?
私というものが無くても考えているのではないか?
「私が何かしている」と理性的には思えるのだが、それをしているのは私なのだろうか?
私というものが無くても、いつも何かをしているのではないか?

私が「私」について考える、というときの「私」というのは、私が考える「私」であって、それは「考えられた私」なのだが、それがこの私なのだろうか?
と考えるこの私自体もつまりは〈考えによって作られているモノ〉なのだろうか?

そもそも私にはひとつの定まった形というものが無いようだ。
私は常に揺れ動いて変化している。
私は決して〈恒常不変の一個の安定したモノ〉ではないと思う。
そのような捉えようの無い私を捉えようとする私を対象とする私が考えようとしている私、、、、、、

私にとって、私が認知する全ての事物は(そうは考えにくいのだが)当然私(の認知・考え)に依存する。 そして〈私自身〉も(そうは思えないのだが)私の〈考え〉に依存しているようだ。
とはいえこの私にとって私はいつでもどこまでも私である。
しかし、私がなんなのかは、私には全く不明である。
私が私を客観的なものとして、あるいは主観的なものとしても捉えきることは不可能だ。

やはり実際には[私]というモノは無いと思う。
考えるときにあるもの、言葉にされたときだけあるもののようだ。
それでも私とは一体なにか?と考える私がいる。
コレはどういうことなのか???完全に矛盾している!!!
全く辻褄が合わない。実に混沌としている、、、はずなのだが、こうして平然と考えている。どうしてこんなことが可能なのか?
何かがおかしい!、、、のだが、、、私には何がどうおかしいのかマッタク解らない。
しかし何故か、こんな成り立ちがわからない(実は無いはずの)私が見る世界は安定しているようだ。そして私自身も安定しているように私には思える。 (のでますます解らない!)

これらの文章を作っているのは私。ひとつひとつの言葉をつなぎ合わせているのは私。作った文章を見つつ、いろいろと考えつつ作文しているのはこの私。
その時々に、すべてを統括する私があるようだ。
という時の、その私とは一体なにか?
そして、その私の見る世界とは一体なにか?
、、、と考える私とはなにか?

私とは、何かを見たり聞いたり感じたり考えたり行為したりするものである。そして、それらを可能にする機能を有する肉体に依存するモノである、 と考えられる。
私とは、常に肉体や意識の状態やその環境に依存するモノである。だから恒常不変の私というものが無いのは当然のことで、アレコレと悩む必要は無い。 とも考えられる。
何故私という主体は揺れ動いていながら、常に私でいられるのか?


私という同じ言葉が何度も使われているが、その指し示すモノは同じではない。

私が何も考えなければ、何も現れない。
何処にも何も無いはずなのに、、、 考えてしまう、、、、、、

しかし、スベテヲシルモノがアル。
ソレは私には決して知りえないモノ。
誰にもナニにも、名付けようの無いもの、、、ボンヤリしているのでよく見ようと思った瞬間に消え失せるモノ、、、考えに依存する〈私〉には決して考えることができないモノ。
常に〈私〉によって隠されるモノ。 〈私〉と同時にはありえないモノ。
ソレがアル時、〈私〉はナイ。
ソレは知りえない。知ろうとしてはいけない。
考えも思いも及ばないのだから。

けれど、ソレがアルからスベテがアルのだろう。

いくつもの見方、ひとつの選択、偏ったまとまり

主体とはなにか?

どのような事象をどのように扱うかによって、それにふさわしい自分の様態=主体が形成されている。対象や環境を識別し、それに対応する為に主体は形成されている。
要するに主体とは、その瞬間にとらわれている対象や環境に対して作られるもの、といったところか。

いや、違う。全く逆だ。
「対象や環境」はあらかじめそのようにあるわけではない。
主体の状態・あり方によって、それにふさわしい対象や環境が現れる。つまり、主体が対象や環境をみいだしているのだ。

いや、これも違う。
「主体だけがある」ということも「対象や環境=客体だけがある」ということも実際には成り立たない。
主体の成立はその客体の成立が前提であり、「対象や環境=客体」の存在はそうみなす主体の存在が前提になる。主体と客体は相互に依存しあうことで、はじめて成り立つ。
(そしてソレラを成立させ維持するハタラキが無ければならない)
「主体」とは何かを見る者であり、見るべき何かが無ければ成立しないものである。
そして「客体」というものも、何者かがソレをそのようにみなすことが無ければ成立しないものである。
(主体も客体も、〈私〉がナニカを示すために使う言葉なのだが、、、)

世界観を投影する主体(=何かを見る者)が「対象や環境」(=世界)を生成し維持している。
また同時に何か(ソレやコレやアレ)を、「そうみなす考えや意図とは無関係に、あらかじめ存在するもの」として認知している主体がある。 この認知の内容が「世界」である。
つまり、能動的に世界を見出す主体と、客観的世界を受動的に認知する主体とがあるということ。

だけどこれでは、何が初めかわからない。ふたつの見方=主体が同時に成立していることになる。つまり、ふたつ(あるいはそれ以上)の見方=主体が同時に成立可能であると考えるのが合理的だ。

合理的であるはずなのだが、何故だか私には理解しがたい。
複数の主体が同時に(ひとつの中に)成立している!?
それが私なのか?
だとしても、私が見ているものが何なのか、私にはわからない。
(実はスベテはゴウリテキでないナニカによってデキテイル)

すべては「考え」「考え方」である。ただそう考えられるというだけ。
私がこれらの文章を作ったのは間違いないのだが、、、これは、私が、考えたもの、なのか?
残念ながら、いずれにせよ私は私の考えに惑わされてしまうのだ。
私は考えることに戸惑いを抱き続けざるをえない。
私が何も考えなければ、何も現れない。
何処にも何も無いはずなのに、、、 考えてしまう、、、、、、
こうして、考える私が考える、、、
(アワレナリ)
私がアル限り、すべては考えに閉じ込められる!

人間とはなにか?

実在するものも、現実世界も、森羅万象を解き明かす科学も、すべては人間がそのようにみているモノにすぎない。
「世界平和」も、「環境保護」も、「あらゆるものは平等である」という理念も、どれも人間が考えた、人間だけのための、耳ざわりのいい、実に空虚なコトバである。
人間以外の視点・立場が全く欠けている。
実に不完全な〈考え〉である。
すべて人間中心の発想だ。

人間はあらゆるものを人間的にみて、人間を主体にしてに考える。
人間として(人間を主体にして)考えることは、何をどのように考えようとも、人間中心のものである。どう見ても歪んでいるとしか言いようがない。キャッカンテキにミテ、奇形である。

人間であるという自覚を捨てなければならない。
人間であるという自覚だけを持って臨んではならない。
人間というものは無い。自分というものは無い。
自我というものは無い。自己というものは無い。
人間である私というものは無い。

なんらかの主体であるとき、その対象は限定される。
人間であるという自覚、あるいは自己・自我・自分・私という自覚をもった時点で、その世界は限定されている。
そして、そのままその世界に限定されてしまう。
そうとは気付かぬままに。

比喩もできないような、取るに足りない矮小な、いびつに歪んで偏った奇形なモノを、「現実・世界・宇宙・森羅万象」等と思い込んでいる。それを頼りにしている。
井の中の蛙どころのはなしではない。
不完全とかいうはなしではない。

人間として考えようとする限り、救いは無い。
人間として考えている限り、なにも解ることは無い。
実に、憐れである。

ひとごとではない!