いくつもの見方、ひとつの選択、偏ったまとまり

主体とはなにか?

どのような事象をどのように扱うかによって、それにふさわしい自分の様態=主体が形成されている。対象や環境を識別し、それに対応する為に主体は形成されている。
要するに主体とは、その瞬間にとらわれている対象や環境に対して作られるもの、といったところか。

いや、違う。全く逆だ。
「対象や環境」はあらかじめそのようにあるわけではない。
主体の状態・あり方によって、それにふさわしい対象や環境が現れる。つまり、主体が対象や環境をみいだしているのだ。

いや、これも違う。
「主体だけがある」ということも「対象や環境=客体だけがある」ということも実際には成り立たない。
主体の成立はその客体の成立が前提であり、「対象や環境=客体」の存在はそうみなす主体の存在が前提になる。主体と客体は相互に依存しあうことで、はじめて成り立つ。
(そしてソレラを成立させ維持するハタラキが無ければならない)
「主体」とは何かを見る者であり、見るべき何かが無ければ成立しないものである。
そして「客体」というものも、何者かがソレをそのようにみなすことが無ければ成立しないものである。
(主体も客体も、〈私〉がナニカを示すために使う言葉なのだが、、、)

世界観を投影する主体(=何かを見る者)が「対象や環境」(=世界)を生成し維持している。
また同時に何か(ソレやコレやアレ)を、「そうみなす考えや意図とは無関係に、あらかじめ存在するもの」として認知している主体がある。 この認知の内容が「世界」である。
つまり、能動的に世界を見出す主体と、客観的世界を受動的に認知する主体とがあるということ。

だけどこれでは、何が初めかわからない。ふたつの見方=主体が同時に成立していることになる。つまり、ふたつ(あるいはそれ以上)の見方=主体が同時に成立可能であると考えるのが合理的だ。

合理的であるはずなのだが、何故だか私には理解しがたい。
複数の主体が同時に(ひとつの中に)成立している!?
それが私なのか?
だとしても、私が見ているものが何なのか、私にはわからない。
(実はスベテはゴウリテキでないナニカによってデキテイル)

すべては「考え」「考え方」である。ただそう考えられるというだけ。
私がこれらの文章を作ったのは間違いないのだが、、、これは、私が、考えたもの、なのか?
残念ながら、いずれにせよ私は私の考えに惑わされてしまうのだ。
私は考えることに戸惑いを抱き続けざるをえない。
私が何も考えなければ、何も現れない。
何処にも何も無いはずなのに、、、 考えてしまう、、、、、、
こうして、考える私が考える、、、
(アワレナリ)
私がアル限り、すべては考えに閉じ込められる!