この世界。私の世界。
私の五感や私の思いや考えによって作られている私の世界。
お馴染みの世界。あたりまえの世界。
私はこの世界の中で様々なものを見たり感じたりしている。私はこの世界の色々な物事について考えたりする。
まるで全てが私と無関係に存在しているかのように、、、
今私の目の前にある物はワタシがコノヨウナモノだとミルからこのようにある。 私が思い浮かべる物事も人物も何もかも全てが、ワタシがソウオモウからこそそのように思うことができるのだ。
(私やワタシという主体さえもこうしてツクラレテシマウ)
無自覚に認知するものや心に浮かぶものスベテを無条件にそのようなものとして自覚的に実際的なものとして扱っているだけ。
(何故かいつの間にかそのようなモノがソウシテイル)
だから、眼で見ているあらゆるモノも思い浮かべるどんなモノもスベテが不安定で不完全である。
たとえばナニカを「これ」として見れば「これ」だと思えるし、「コレ」だと思えば「コレ」のように見えてしまう。見方・捉え方・感じ方・考え方で全く違うものをみいだしている。
それは認知する主体が不安定で不完全だからだろう。
不安定だから時によって違って見えるし、不完全だからそのようなものをみいだしてしまうのだ。
私が認知する全ては私の解釈(絶対に意識できない独自の形成作用)に依存せざるをえない。 そして当然この〈解釈の結果現れるもの〉は私だけのものである。
(私のスベテはソレラで作られている!)
そうではないモノが有るとしても、私はソレを知りえない!
私にとってはそのようなモノ(が存在するということ)は存在しないことと同じである。
私の世界にあるもの、認知されるあらゆる全ては〈解釈〉というその一瞬の〈結果〉である。
どんなにリアリティーがあるものでも、全ては別の場面・状況あるいは別の意識状態では別の解釈が可能なモノである。
全ては(その瞬間の)解釈の結果であり、実際にはどのようなモノも(解釈無しには)存在しない。
全ては架空のものであり、そう思う瞬間に実在すると思えるだけ。
全ては常ならざるものであり、永遠に変わらぬものなど無い。
そのようなものが有ると思うのはただそのような思いにすぎない。
(不変のものも無常のものもナニも無い。ただコトバがあるだけ)
、、、と考える私自体が無常のモノである。、、、という考え自体が一瞬のものである。
考えは考えにすぎない!思いは思いにすぎない!
(ソレラは次に現れる考え・思いにより忘れられ消え去る)
このことをハッキリ自覚しなければナニも始まらない!
自分の瞬間的な認知や解釈に囚われている結果こうなっている。
(自分自体のことをわからぬまま)
自分の直感を無闇に信じてはならない。
自分の直観をただ信じ込んではいけない。
何故なら、直感も直観も全てが無意識に行われる解釈(無自覚な決め付け)の結果だから。 それらは実際には独自な感覚や観察にすぎない。ただ単に(私にとって)スンナリと馴染むだけ。
私の(混沌とした)内部でつくられていることに気付かないだけ。
純粋な直感というものは無いし、無垢な直観というものも無い。
自分を信じるということは自分を疑わないということであり、無自覚(本質的に独善的かつ利己的)であり続けようとすることである。
しかし、日常では自分の全てをただ信じている。言い換えると日常的に自分の直感・直観・自覚・認知などに囚われているということ。 つまり〈自分・私〉が無意識に生み出す(固定観念とでも言うべき)ものに自らを(つまり全てを)閉じ込めているということ。
(自分の認知や理性が不安定でも不完全でもないと思うなら、早急に全てを疑う必要が有る)
囚われている(=ただ信じている)ことに気付いていないからこそ、それら(キャッカンセイの無い私的なもの)を根拠に平然と(非)理性的に考えることができる。
この世界は私だけの世界。
私が根拠とするスベテはこの私の世界の中にしか無い。
(完全な自家中毒である。私は私の生み出す毒によって作られる)
私は自らの直感や直観(独自な条件反射の結果生成されるもの)を考えの素材・根拠にせざるをえない。(私にとっての)現実とか客観的な事実とかありのままに認知されるものというものも、実際にはこうした意識できない解釈(根拠の無い形成作用)の結果だけが基礎になっている。
全ては私の意識の一部・全体の一部・〈私〉の迷妄、思い上がり、暴走の結果である。
何故、どう考えてもただの(反射的な)解釈にすぎないものが全ての根拠や前提になるのだろう?
信じるべきモノなど(私の世界以外には)ドコにも無いのに!
自らの成り立ちを顧みないことが、自らを矮小な存在にしている。
(もともとどんな自分も、、、スベテが架空のモノなのだが、、、)