言葉の可能性

当然だが「言葉」に固有の意味は無い。そして「言葉」の使い方は自由であり、どのような「言葉の組み合わせ」も可能である。

気が付くと、私は、何故かは解らないが、アレコレと考えている。
心に浮かぶ様々な物事について、私の認知する「世界」のあらゆるモノゴトについて、いつとはなしに言葉で考えている。
考えることで「世界」を無意識に補完・維持している。

知覚・解釈・実感・認識・記憶・理解・固定観念・既成概念・客観的普遍的事物・常識などの言葉にされ(う)るものの意味・内容が「私の世界」を構築する。 つまり「世界」とは「言葉」で描写・記述され(う)るもののことである。言葉で考えられるモノが私の世界の全てである。

それにしても、何故、私は、いつも、 言葉で、考えるている、のだろうか?
これが解れば全ての謎があっさりと解けるはずなのだが、、、
(言葉で考えても絶対に無理だということだけは解る)

「言葉」そのものは空虚な器であり、何かを仮に把握する為の抽象・記号にすぎない。
そうした性質の「言葉」によって「生成されるイメージ」は、言葉が示そうとする「何かそのもの」とは全く異質のものである。
私には「言葉」によって私の内部にイメージされる架空の「事物・現実」を扱うことしかできない。

「言葉が示そうとするもの」は「言葉が描写する世界」の中には有る。しかし言葉の可能性を超えたジッサイノセカイには言葉も・考えも・思いも・感覚も・なんにも及ばない。
ソレは私には微塵も知ることのできないセカイ。
 対象化できないセカイ。ソコには私すら無い。
ソレについて、私には、何も、言うことが、できない。
ところが私には何故かそのような自覚は無いし、このことは決して顧みられることがない。
なので平気で「私はあらゆる物事について考えることができる」とか
「私が考えることができる物事が実質的に(私の)世界を構成している」などと思っている。


ひとつひとつの「言葉」は既成のものである。辞書を引いたりして調べれば意味や使い方は解る。 しかしそうして解るのはその言葉の「一般的な意味や用法」であって、肝心の「実際に使われている言葉の意味・意図・文脈」は決して解らない。
全ての言葉(が示すもの)は「私が推測するしかないもの」である。

私は言葉の定義というものを怪しく思う。
何故?何の為に?辞書の類いが(いくつも)有るのだろう?
言葉の意味や用法を調べてどうするのか?
結局は推測の手掛りにしかならないし、そこには知らぬ間に「言葉」に囚われてしまう危険性がある!
つまり言葉を、言葉にされ(う)るモノを、言葉の意味や意図を、無闇に信じ込んで「私の世界」の基盤・要素・前提にしてしまうという成り行きを自らが無自覚に促進・強化してしまうということ。
この、言葉で描写され(う)る理性的現実的(とみなされる架空の)世界をジッサイノセカイと取り違えてしまうようになってしまうということ。
これは「とても危険である」と自覚しなければならない。
「世界」というのは「私の世界」であり「私だけの世界」にすぎない。

私には言葉という器の中身である意味・意図・文脈つまり言葉の働きだけがモンダイであり、ナニカを言葉とはベツノモノでヒョウゲンできるなら言葉はあまり必要ではない。
(言葉は効率的でないうえ極めて扱いの難しい媒体だと思う)

私は自分の言葉を辞書にあるような意味と矛盾しないように使っているのだが出来上がった文章は「意味がつかみにくい、なんだか解らないもの」になっているようなのだ。
これではダメだと思う。だけど仕方がないし構わないと思う。
「言葉」はこのような使われ方には耐えられないのだ。
私は言葉の可能性を試しているのかもしれない。
こうやって言葉で(私なりの)実験をしているのだと思う。
何か(言葉とは別の次元のモノ)を「言葉にできる」と思うこと自体が勘違いだし、何かを「言葉で表現できた」と考えることも単なる錯誤にすぎないのだけど、、、
いつまでもどこまでもこんな「言葉」に頼っていていいのだろうか?

言葉と意味とを一旦切り離す必要があるのかもしれない。
「言葉によらない理解」について追求するべきかもしれない。
それともアタラシイコトバが必要なのだろうか?
あるいは認知の様式の変化?理性の進化?
(でもそれだけでハッキリトワカルヨウニナルのだろうか? )

はたして、言葉の可能性とは、、、?