主体の謎 謎の主体

私はいつも何かを考えたり何かをしている。 これらは常に意識的であり主体的であり能動的である。
と、考えがちだが、よくよく観察するとそれらの思惟・行為は、厳密には反射的かつ連鎖的であり、むしろ無意識的であるように思える。

「私は考えている」とは言えるが、考えているのは私なのだろうか?
私というものが無くても考えているのではないか?
「私が何かしている」と理性的には思えるのだが、それをしているのは私なのだろうか?
私というものが無くても、いつも何かをしているのではないか?

私が「私」について考える、というときの「私」というのは、私が考える「私」であって、それは「考えられた私」なのだが、それがこの私なのだろうか?
と考えるこの私自体もつまりは〈考えによって作られているモノ〉なのだろうか?

そもそも私にはひとつの定まった形というものが無いようだ。
私は常に揺れ動いて変化している。
私は決して〈恒常不変の一個の安定したモノ〉ではないと思う。
そのような捉えようの無い私を捉えようとする私を対象とする私が考えようとしている私、、、、、、

私にとって、私が認知する全ての事物は(そうは考えにくいのだが)当然私(の認知・考え)に依存する。 そして〈私自身〉も(そうは思えないのだが)私の〈考え〉に依存しているようだ。
とはいえこの私にとって私はいつでもどこまでも私である。
しかし、私がなんなのかは、私には全く不明である。
私が私を客観的なものとして、あるいは主観的なものとしても捉えきることは不可能だ。

やはり実際には[私]というモノは無いと思う。
考えるときにあるもの、言葉にされたときだけあるもののようだ。
それでも私とは一体なにか?と考える私がいる。
コレはどういうことなのか???完全に矛盾している!!!
全く辻褄が合わない。実に混沌としている、、、はずなのだが、こうして平然と考えている。どうしてこんなことが可能なのか?
何かがおかしい!、、、のだが、、、私には何がどうおかしいのかマッタク解らない。
しかし何故か、こんな成り立ちがわからない(実は無いはずの)私が見る世界は安定しているようだ。そして私自身も安定しているように私には思える。 (のでますます解らない!)

これらの文章を作っているのは私。ひとつひとつの言葉をつなぎ合わせているのは私。作った文章を見つつ、いろいろと考えつつ作文しているのはこの私。
その時々に、すべてを統括する私があるようだ。
という時の、その私とは一体なにか?
そして、その私の見る世界とは一体なにか?
、、、と考える私とはなにか?

私とは、何かを見たり聞いたり感じたり考えたり行為したりするものである。そして、それらを可能にする機能を有する肉体に依存するモノである、 と考えられる。
私とは、常に肉体や意識の状態やその環境に依存するモノである。だから恒常不変の私というものが無いのは当然のことで、アレコレと悩む必要は無い。 とも考えられる。
何故私という主体は揺れ動いていながら、常に私でいられるのか?


私という同じ言葉が何度も使われているが、その指し示すモノは同じではない。

私が何も考えなければ、何も現れない。
何処にも何も無いはずなのに、、、 考えてしまう、、、、、、

しかし、スベテヲシルモノがアル。
ソレは私には決して知りえないモノ。
誰にもナニにも、名付けようの無いもの、、、ボンヤリしているのでよく見ようと思った瞬間に消え失せるモノ、、、考えに依存する〈私〉には決して考えることができないモノ。
常に〈私〉によって隠されるモノ。 〈私〉と同時にはありえないモノ。
ソレがアル時、〈私〉はナイ。
ソレは知りえない。知ろうとしてはいけない。
考えも思いも及ばないのだから。

けれど、ソレがアルからスベテがアルのだろう。