何を『実在』とみなすべきか?
一般的には「理性の働きとは関係なく、認識主体から離れて存在するもの」と定義されている。
しかしこれでは「理性には知ることも考えることもできないもの」になってしまう。
この「定義」は不合理か?それともやはり合理的か?
たとえば「今まさに〇〇を見ている」という切実な体験をしている時には、「〇〇」という知覚イメージや「〇〇」についての認識や定義は容易に確認できる。そしてそれらを基にしてごく自然に「〇〇は実在する」とみなしている。
しかし「〇〇」をじっと見つめていると、知覚イメージや認識や定義がいつのまにか変化してゆくことがある。
この「変化」は「〇〇」自体によるものではなく、見ているこちら側によるものである。つまり「〇〇をそのまま見ている」のでなく、認知する働きが「〇〇」を成立させ、「〇〇を見ているという切実な体験」をも可能にしているのである。
「〇〇」はその瞬間の主観的な知覚・知識・意識状態などに依存する、いわば幻(オリジナルが無いもの)である。
つまりは「その瞬間毎の自己の内部の幻影を『外部に実在するもの』とみなしている」ということである。
では、「耳で聴いているもの」とは何か?
耳の中では、まず鼓膜が空気の微細な圧力の変化を受けて振動している。振動は別の信号に変換されて脳へ伝わる。鼓膜はただ震えているだけで、どのような音も声も言葉も意味も識別してはいない。耳は単に空気の振動を検出する器官であり「何かを聴く器官」ではない。
「感覚・五感」とは、感覚器官が受けた刺激を脳が処理したうえで編成し構築する知覚に対する「解釈」である。つまり「五官でとらえ感じているもの」は、実際には理性や認識主体が知覚を基に独自に創る実在しないもの=幻覚である。
また、考える為には「言葉には意味や定義がある」「事物には名称がある」「言葉にされるものはその意味や定義を具現して存在する」「名称の無い対象にも名付けることができる」「自分の知覚や考えは自然であり、何にも規制されていない」などと思い込んでいる必要がある。
そして、それらを基にした恣意・思考が終始肯定されるように働いている必要がある。
しかし、これらは決して充分に検証されることがない。検証に耐えられない、作られた危うい信念である。
疑われることの無い信念は、更にまた別の概念・観念・信念を次々と連鎖的に生み出す素材や要因となる。
理性的主体が機能できるのは、言葉や知覚やそれらを統合した〈世界〉や〈自己〉などの〈あらゆる事物〉が「無条件に確立している」ということを前提にしているからである。
〈全て〉を常に無自覚に意味付けし補完・維持し、その結果現れる〈全て〉をただ信じ込んでいられるからである。
こうした自覚し難い形成作用と単純な信念がなければ、どのような〈世界〉も〈自己〉も整然とは現れない。
これは主体・主観(知覚や認識)のあり方次第で、〈全て〉がどのようにも変わりうる、ということをも示している。
日常の生活の中で、自分で感じたものや考えたことを、そのまま何も疑わずに単純に信じ込んでいるのは、本当は無知そのものであり〈真に理性的な態度〉とは言えない。
この無知や根拠の無い信念が、理性にはあらかじめ解決不能な様々な矛盾や混乱を生む原因であると気付くべきである。
「実在」や「存在する」などの言葉も、知覚や認識を基盤・前提にした「論理」の中で、単に言葉として使うだけなら(錯誤ではあるが)理性にとっては問題は無いかもしれない。
問題なのは、あらゆる論理・秩序・因果関係・真理、また世界や自己など全てが「理性が創出した『考え』にすぎない」という本来の性質や制約を〈忘れてしまう〉ということである。
〈全て〉は、理性が「それ」として認めるからこそ、理性を超えるものとしては、理性には実証できない。
知りえない《実在》に対して「考え」をあてはめようとすることは、はじめから理不尽であり、また不可能なのである。
成り立ちからして、既に自ずから完全に閉じた中にある〈無常な主体〉には、いつでも独善的な認知や論理や心など〈人間的なあらゆるもの〉があるだけである。
〈全て〉は理性や主体の為に、その瞬間瞬間に無意識に生成・仮定・定義されるもの、架空のもの、実在しないものである。
これらを事実・真実だと認められるなら、「全ては架空のものであり実体が無い」ということや、「実体が無いものを実在するものとしている」ということが明らかになる。
考える主体も、それが考えた事柄も、明らかになった事柄も、それを明らかにした主体も、ただ一時のもの。
主体が無ければ何も現れず、全く何も無いはずである。
これらは純粋な「考え」である。もっともらしい言葉の羅列にすぎない。どのようなものであれ、理性の生み出すものには決してとらわれてはならない。
一般的には「理性の働きとは関係なく、認識主体から離れて存在するもの」と定義されている。
しかしこれでは「理性には知ることも考えることもできないもの」になってしまう。
この「定義」は不合理か?それともやはり合理的か?
たとえば「今まさに〇〇を見ている」という切実な体験をしている時には、「〇〇」という知覚イメージや「〇〇」についての認識や定義は容易に確認できる。そしてそれらを基にしてごく自然に「〇〇は実在する」とみなしている。
しかし「〇〇」をじっと見つめていると、知覚イメージや認識や定義がいつのまにか変化してゆくことがある。
この「変化」は「〇〇」自体によるものではなく、見ているこちら側によるものである。つまり「〇〇をそのまま見ている」のでなく、認知する働きが「〇〇」を成立させ、「〇〇を見ているという切実な体験」をも可能にしているのである。
「〇〇」はその瞬間の主観的な知覚・知識・意識状態などに依存する、いわば幻(オリジナルが無いもの)である。
つまりは「その瞬間毎の自己の内部の幻影を『外部に実在するもの』とみなしている」ということである。
では、「耳で聴いているもの」とは何か?
耳の中では、まず鼓膜が空気の微細な圧力の変化を受けて振動している。振動は別の信号に変換されて脳へ伝わる。鼓膜はただ震えているだけで、どのような音も声も言葉も意味も識別してはいない。耳は単に空気の振動を検出する器官であり「何かを聴く器官」ではない。
「感覚・五感」とは、感覚器官が受けた刺激を脳が処理したうえで編成し構築する知覚に対する「解釈」である。つまり「五官でとらえ感じているもの」は、実際には理性や認識主体が知覚を基に独自に創る実在しないもの=幻覚である。
また、考える為には「言葉には意味や定義がある」「事物には名称がある」「言葉にされるものはその意味や定義を具現して存在する」「名称の無い対象にも名付けることができる」「自分の知覚や考えは自然であり、何にも規制されていない」などと思い込んでいる必要がある。
そして、それらを基にした恣意・思考が終始肯定されるように働いている必要がある。
しかし、これらは決して充分に検証されることがない。検証に耐えられない、作られた危うい信念である。
疑われることの無い信念は、更にまた別の概念・観念・信念を次々と連鎖的に生み出す素材や要因となる。
理性的主体が機能できるのは、言葉や知覚やそれらを統合した〈世界〉や〈自己〉などの〈あらゆる事物〉が「無条件に確立している」ということを前提にしているからである。
〈全て〉を常に無自覚に意味付けし補完・維持し、その結果現れる〈全て〉をただ信じ込んでいられるからである。
こうした自覚し難い形成作用と単純な信念がなければ、どのような〈世界〉も〈自己〉も整然とは現れない。
これは主体・主観(知覚や認識)のあり方次第で、〈全て〉がどのようにも変わりうる、ということをも示している。
日常の生活の中で、自分で感じたものや考えたことを、そのまま何も疑わずに単純に信じ込んでいるのは、本当は無知そのものであり〈真に理性的な態度〉とは言えない。
この無知や根拠の無い信念が、理性にはあらかじめ解決不能な様々な矛盾や混乱を生む原因であると気付くべきである。
「実在」や「存在する」などの言葉も、知覚や認識を基盤・前提にした「論理」の中で、単に言葉として使うだけなら(錯誤ではあるが)理性にとっては問題は無いかもしれない。
問題なのは、あらゆる論理・秩序・因果関係・真理、また世界や自己など全てが「理性が創出した『考え』にすぎない」という本来の性質や制約を〈忘れてしまう〉ということである。
〈全て〉は、理性が「それ」として認めるからこそ、理性を超えるものとしては、理性には実証できない。
知りえない《実在》に対して「考え」をあてはめようとすることは、はじめから理不尽であり、また不可能なのである。
成り立ちからして、既に自ずから完全に閉じた中にある〈無常な主体〉には、いつでも独善的な認知や論理や心など〈人間的なあらゆるもの〉があるだけである。
〈全て〉は理性や主体の為に、その瞬間瞬間に無意識に生成・仮定・定義されるもの、架空のもの、実在しないものである。
これらを事実・真実だと認められるなら、「全ては架空のものであり実体が無い」ということや、「実体が無いものを実在するものとしている」ということが明らかになる。
考える主体も、それが考えた事柄も、明らかになった事柄も、それを明らかにした主体も、ただ一時のもの。
主体が無ければ何も現れず、全く何も無いはずである。
これらは純粋な「考え」である。もっともらしい言葉の羅列にすぎない。どのようなものであれ、理性の生み出すものには決してとらわれてはならない。