言葉で言い表そうとして、説明・記述する。
何度も推敲して、なんとか納得のいく文章を書き上げる。
しかし、駄目だと思う。
まるでなってない、と思う。
まずい文章だと思う。
綻びだらけ、矛盾だらけ、伝わらない、誤解される。
考えるに幾つかその原因は思いつく。
こんなことが言いたい、自分のこういう考え方・理解・認識を知ってもらいたい、というのが初めにあった。けど、いつしか個人的な何かが、私的な何かが、より強く支配的に働くようになっていたのだ。というのが、まずひとつ。
そもそも、言いたい事なんて無かったのかもしれない、とすら思えてくる。何も明確では無かったのだ。何かを言おうとしていたのは事実なんだけど、その何かというものが自分にもはっきりとは解っていないのだろう。これがふたつめ。
みっつめはもっと根本的で深刻だ。つまり、言葉が予め不能だということ。言葉で何かを言い表すことが、初めから無理なんだということ。
より正確に精密に表現しようとすると無限の論理地獄が待っている。
そこでは考える事が無意味になる。
そこではもう表現なんてできない。
そもそも言葉とはなにか?
何かの象徴・記号・表現・代用・置換・抽象。
そのようなものとして言葉を使っている。
言葉を使って何かを言おうとしている。
そして自ら発する言葉には、言葉にできなかった何かが秘められている。言葉に何かを籠めている。
では自分の言葉に秘めているもの、籠めているものは言葉に出来ないのか?それは決して言葉に置き換えられないのか?
もしかしたらそれは『意味』あるいは『意図』なのかもしれない。
言葉とはなにか。言葉の成り立ちとはなにか。言葉の一歩手前のものとはなにか。言葉の意味とはなにか。意味とはなにか。
眺める、見る、見つける、見出す、見つめる、見てとる、見抜く、見透かす、見誤る、、、その時の意識の状態と意識の作用。そこにおいて言葉は何か関わっているのか。
行為・意識・思考・解釈・意図、、、それらの相互作用。時間の経過とともに次々新しくなっている。それぞれの役割、理性の関与。瞬間の認識・自覚を言葉で考え表現する。
考える為には、考える為の前提として、考える為に使う言葉の意味を仮定する必要がある。
誰かが、どこかに記述されている言葉を、そのまま理解したとしても、それらの言葉はそのように理解されてはならない。それは完全な誤解である。
自分は、自分の言葉を理解して欲しくて話すのではない。
話されてはいないコト、話されてはいないモノ。話すことができないモノゴトがアル。
伝えたいモノは言葉に出来ない。話す言葉は、何かを伝えようとしているが、話す言葉そのものには、なにもない。
どんなに多くの言葉を費やしても、それらの言葉からは伝えたいモノは伝わらない。
言葉を使って表現しようとしているが、表現しようとしているモノは言語化できない。
伝えたいモノは言葉に出来ないが、やはり言葉に頼ることより他は無さそうだ。
ソレラを言葉を使わずに納得することを望んでいる。