本当にそうなのだ。その時、言葉ででもなく、考えとしてでもなく、ハッキリトワカッタ。
イツモ、ナニカヲカンガエテイルガ、ソレハヨクナイ
〈ソレ〉を仮に言葉にすれば「私たちは、常に根拠がアヤフヤな考えに囚われているが、それはどうしてもよくない」ということ。
コレを〈ワカル〉為には、知識や常識といった[考え]の参照の基準は全く役に立たない。というよりも邪魔である。
(なにしろ、「考え」を否定しているのだから)
(これで〈ワカル〉なら、以下は無用)
コレは理性が請け負える仕事ではない。
コレを〈ワカル〉のは〈考えに依存しない主体〉である。
(コレは、まず、理性を消滅させる為のモノである)
「言葉での説明は、きっと誤解され間違いを生む」ということを承知の上で、「何故、考えること自体が間違いなのか」ということを誰もが容易に納得できるように、言葉で(!)説明しようと思う。
実に単純な〈コト〉なのだが、「考えても無理、考えるから解らないのだ」と解りつつ(!)最善を尽くそうと思う。
まず、考えや理解は、常に[今体験し実感しているモノ]であると思いつつ吟味してほしい。
(これが重要!これができなければなんにもならない!)
(この[今体験し実感しているモノ]を笑い飛ばすため!)
考えることができるもの、言葉にできるもの、理性が扱えるもの、知覚できるもの、、、自分のあらゆる可能性、、、、それらには明らかにそれ相応の限界がある。
(これは納得できるはず)
どのような自覚を持つにせよ、[自分]も[世界]もそれらの限界の中にしか存在しえない。
(これも納得できるはず)
[自分]の限界を超えた〈ナニカ〉は一切知りえない。可能性を超えているので想像すらできない。〈ソレ〉は「未知」ではなく[不可知]である。
(これも納得できるはず)
『無限の可能性』という言葉も、この言葉を作る[今]想定される「無限の可能性」なので、[今の可能性]を微塵も超えることはない。ただの言葉である。
言葉にされるもの、想像できるものは〈ソレ〉ではない。
私たちは、「何か」を、「言葉」で、考える。
『私』が考える限り、その「何か」も「言葉」も常に『私』の主観に依存することを免れない。
客観的なもの=他者と共有できる事物・現実など[考え]の根拠にしているモノも、それらを常に無意識にそのように主観的にみなすことでしか作られない。
私たちは、私たちの可能性の限界を超えた無限の〈ナニカ〉があり、〈ソレ〉は[今]の私たちには[不可知]であるとハッキリと知らなければならない。
仮に〈ナニカ〉とか〈ソレ〉という言葉にするが、本来それは[不可知]である。[不可知]を示そうとする言葉自体が、まさに仮に想定された架空のモノ=無内容であるはずなのだ。
[考え]は信念・常識・知覚・認識・意識・記憶・情緒・欲望などの様々なものと、それらを根拠や基準として参照し採用する[その瞬間の主体]、これらがあって生まれるものである。
また、何故[主体]や[考え]が現れのるかはハッキリさせられない。あらゆる知識・智慧を駆使して説明しようとしても、閉ざされた[自分]という有限の世界の中で、限られた「言葉と意味」の組み合わせが無限に生産され続けるだけ。
[全て]は、このように絶対に知りえないモノゴトに依存しているのだが、何故か、私たちは常にこの認識を欠いている。
[考え]はいつでも自動的に展開されているが、その「もっともらしさ」というものは[考え]自体に依存する。「これは正しい」「これは間違い」とアタリマエのように考えていても、全ては[自分]という有限の世界の中でのこと。
根拠や基準は『私』の中にしかないのだ。
「これ」や〈ナニカ〉とかいう対象も[考え]が作っている。
何にも規制されない自由な[考え]が[全て]を捏造する。
そうして出来た世界に私たちは生きている。(と思っている)
気ままな思惟。架空の[全て]。都合のいい[考え]。
[全て]が[考え]によって閉じ込められている。
これらが、[今]の有限な[私たち・全て]の実態。
いったい「考えること自体が間違い」ということを、どのような観点から、どのような主体が、どのような意図をもって、主張しようとするのか?
(よくよく考えてみて欲しい)
考えることは自動的であり、止めることは容易ではない。
つい考えてしまう。いつも何か考えている。
それは、よくない。絶対に(!)間違う。
では、どうすればいい?
考えなければいい。
(何故なら、全ての言葉は架空のモノを指示するのであり、そのような言葉で考えるモノにはイミがナイから)
これは[考え]とは関係ない〈考えに依存しない主体〉に対する呼びかけだから、『私』が考える必要はない。