理性

理性が生み出す〔考え〕は曖昧で矛盾する。これが大前提。

理性は、本来言葉とは無縁のモノ・言葉に置き換えられないモノ、つまり五官が捉える〈ナニカ〉心に浮かぶ〈ナニカ〉をスンナリと言葉に置き換える。理性はこの自らの持つ魔法のような技術を知らずにいる。そして言葉に置き換えていることすら気にかけない。

あらゆる言葉、全ての言葉は、理性が「言葉とは無縁のモノ」を把握するため、示すため、扱うために作ったものである。
つまり理性は〈ナニカ〉を認知すると同時に〈それ〉を勝手に言葉にしてしまうのだ。

あまりに自然に言葉を使っているので、どのようにひとつひとつの言葉を教えられたのか、どのようにひとつひとつの言葉を学び・覚えたのかを忘れている。どうやって言葉の使い方を学び・覚えたのかを忘れている。言葉を学ぶ前のこと、言葉とは無縁の頃のことをスッカリと忘れている。

(どのように教えられたのか)
(どのように教えるのか)

言葉が示すものは〈ナニカ〉そのものではなく、理性の中にある意味や定義であり、〈ナニカ〉とは全然別のものである。しかし言葉が身についてしまったので、「言葉にされるものはそのようなものとして存在する」と思い込むようになっている。

理性は何事かについて「知っている、理解している」という。
それはその通り、全く正しい。
理性は「あらゆる物事を解明し理解できるだろう」と考える。
そう考える事も当然だ。

しかし問題は「理性には限界がある」とは考えないということである。理性は理性の働きについて、ハッキリ理解・自覚していない。これは致命的な欠陥である。

理性は何も明らかにしないし、何も解決できない。
理性はその時々の考えを信じ込んでいるにすぎない。
自分の考えを何の疑問も抱かずに、繰り広げたり反省したりしているだけ。納得できる考え、納得できる考え方を模索しているだけ。自分の考えに酔い痴れているだけ。

自分の「考え」の正しさを証明するのは、いつでも自分の「考え」の内容・成り立ちを正当化する働きである。いわば自家中毒のようなものである。

理性が知ろうとし、対象としている「世界」は、本当は理性とは無関係に実在する《世界》であるはずだ。しかし理性は《世界》ではなく「理性自らが作った架空の世界」を対象としている。理性はこのことに全く気がつかない。

理性の動機・目的・方法・手段、全てが的外れだ。
知りえないとは気づかずに、知ろうとしている。
(知ろうとすることに微かな望みはある)

理性は初めから終わりまで理性的ではない。理性は常に取り違えて勘違いしている。
理性がいつも懸命に考え、明らかにし解決しようとしているのは、元はといえば「ふと思いついたもの」である。心の中に現れては消えてゆく、とりとめのない言葉の連鎖の中に、ふと気になり注目したものにすぎない。「?なんだこれは?何か面白そうだ。ちょっと考えてみよう」という具合に。

理性は、それ自体が虚構である。全てが幻想である。自分の五官で感じているものも、自分で考えた事も、全てが幻覚・虚構である。
理性は、「客観的事実」は理性自身が作ったという自覚を欠いている。また理性は、「客観的事実」を理性とは関係なく存在するものだと錯誤している。そして「客観的事実」を考えの根拠にしている。
理性の拠り所は固定観念にすぎない。
理性の語る言葉は虚構である。
理性が理性に語りかけているだけ。
理性が見る世界は幻影である。
理性が理性に見せているだけ。
理性が理性を納得させているだけ。
それをただ単純に、理性が信じ込んでいるだけ。

納得できるものは、事実・真実・現実・信念となる。
何を納得しているのかというと、自己の内側に作られる虚構・幻影、架空の観念・概念である。
理性は、理性自身が自己の内側に作った架空の観念・概念を基礎・根拠とし、また素材にして、考察したり、推理したり、予測したりして、新たな観念・概念を作り続けている。それも理性自身にとって理解し易いように、都合のいいように。
しかし理性はこの事態を顧みることがない。
理性はこのように働くように、常に調整されている。
理性はあらゆるものを取り上げるが、理性自体を明確に検証することができない。何故なら、検証する目的も、検証する対象も、検証する方法も、全てが理性に依存するものだから。

これらが理性の性質・特徴・本質である。理性はこのように働いている。理性は必然的に理性自体に陥っている。
理性には主観的・個人的・独善的な考えしかない。自分の考えに納得し満足し安心し得意になっている。

憐れである。実に憐れだが、理性とはこういうものだ。
何故人間は常に理性に陥ってしまい、そこから脱け出せないでいるのか?
何故、何年も何十年も何百年も何千年も何万年もの間、同じようなことを思い悩んでいるのだろう?